今、ふと思ったのだけど、
心理的に苦しいことになってしまっている人(たとえ社会的には成功していたとしても)の特徴って、まるッとまとめれば、「悲しみの涙」が流せなくなっている(流したことがない)ことのような気がする。
政治家に良くいるような、他責の涙しか流せない人ってのは結構いて、その手の人が泣く時は自分は被害者だと訴える。私の少し前の職場にその典型みたいな職員がいていつも驚かされていたけど(職場でよく泣く人だった)。そういう人は多くの場合、本人はあまり苦しさを自覚できてなくて大変なのは周囲だったりするけど。笑
逆に自責の涙を流す人もいるけど、それが悲しみになっていないと、やはり結構大変(本人が)。自分が悪いといつも自らを責めて頑張ってそれを挽回しようとして、でもどんなに頑張っても足りない気がして自分と闘い続けて、しまいに精魂尽き果てて動けなくなる。
で、私が「悲しみの涙」と呼んでいるのは自責でも他責でもなくて、そういう「犯人探し」の涙ではなくて、贖罪の涙だったり喪失を受け入れる涙だったりするもので、贖罪と言っても、頑張って罪を帳消しにしようとするのではなく赦しを乞うようなもの。終わったことを諦め手放す涙。
『落下の解剖学』や『君の誕生日』や『ジョーカー2』を観て、そんなこと思いました。
いや、別に自分を棚上げにして言っているのではなく、自分も含めた人間という存在の性質について、ちょっと思ったので、書いてみました。
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