って言うか、おそらくは、むしろ臨床でお会いしている人たちは、何らかの形でその状態を「苦しい」と感じて、「治療」を求めてやって来る訳で(来た当初は「あなたは間違えていない。あなたを認めないその上司が(妻が、夫が、恋人が、あなたが恋心を抱いた人が)おかしい」という言葉を私から引き出すことが目的であったとしても)、まだ自分の中で苦悩を体験できている分だけ、まだ対話の可能性があるさえ言える訳で、
それが出来なくなっている状態の人は、もうとっくに、自分の中の「自分の邪魔をする“他者”のせいで、世の中は自分の思い通りにならない」という苦悩を、その“他者”に言語的、身体的暴力を振るったり、その「自分を認めない許しがたい世界」をメチャクチャにして腹いせをすることに快楽を覚えてしまっているので(周囲は迷惑しているけど、本人は愉快でいられる)、面接を求めて来る動機づけを持っていない。
相談者が言葉で言っていること(つまりは本人が意識的に思っていること)をそのまま聴き取って、その「気持ちに応える」ことをしてしまったら、彼らの本当の苦しみには繋がれない。
「女が悪い」「会社が悪い」「俺を馬鹿にしている世界が悪い」と訴えるその言葉の奥にある、万能感と、その奥にある、その万能感を持たざるを得ないほどの「世界との信頼関係のなさ」が、本当のその人の本当の苦しみ。
だけど、もちろんそうやって「定式化」して「教え諭す」ようなことをしても、相手には届かない。
世界に唯一無二のその人自身の、「その人にしか語れない」、しかも「本人でさえ気がついていない」、言葉をひとつひとつを時間をかけて聴き取って、理解して、互いの共通の言葉として一緒に「体験する」プロセスが何よりも必要。
本来であれば乳幼児期に体験する必要のあったそのプロセスを踏まないことには、人はその先に進めない。
あ、その“万能感”は、本来は“乳幼児的万能感”なので、うんと小さい赤ちゃんとか、まだ言葉も満足に使えない幼児とかが持っているのなら、それはむしろ健康の証なんですよね、…精神分析的に言えば。
しかし、うんと幼い時に、両親やそれに代わるその子にとって大切な大人からそれを尊重されながらも、少しずつ「それは自分の願望であって、実は現実はそれとは違うのだ」と“脱錯覚”(ウィニコットの言葉)していくプロセスを踏んでいかなければならない。
そのプロセスが(世界を信用して交流していこうとする動機づけの基礎になる」“社会化”だろうし、そうすることで、私たちは社会で皆が共有している言葉を、“自分の言葉”として共有して操る能力を身につけていく。
私の想像では、ネトウヨが総じて言葉の使い方を良く理解できていないのは、そんなところに原因があるんじゃないかと思っている。インセルはネトウヨほど言葉が苦手じゃない傾向はあるのかな。それもなんか理由あるかも知れないですね。もっとも両者はかなり重なっているとは思うけど。あと、嘘つきなのも、それと関係があると思う、基本的に「世界」との信頼関係を築けていないんだろうと思う。
『ジョーカー2』、不評みたいだけど(それだけに私としては逆に観て観たいのにまだ観てないけど)、幾つかの評に目を通しての私の想像では、多分、“2”の方は「正気の世界」なんだろうなと思っていて、最初の『ジョーカー』は狂気に救いを求める(そして実際に最高な気分になれちゃってる)世界だから、ある種の開放感をそこに見た人たちは“2”ではガッカリしちゃったのかな…と思ってる。
私は、それを「正気に戻して」彼らをガッカリ落胆させて、その耐えがたい鬱々とした現実に持ち堪える力(その力を付けてからでなければ、「現実の巨悪に対して吹けば飛ぶような自分の小さな力で、仲間たちと力を合わせて、闘う」ことはできない)をつけていって貰うことを仕事にしている。