朝鮮族の描き方について言えば、確かにそのような(映画で描かれているような)歴史的な問題はあったのだろうけど、それをあまりにも強調してステレオタイプにしてしまうことで、今に普通に生きている人たちへの偏見の強化になってしまう側面があるという意味では、『アメリカン・フィクション』で描かれている、フィクションで描かれる黒人のステレオ・タイプの問題とも繋がるのかな。
今、ふと思ったけど、『アメリカン・フィクション』が取り上げているような問題って、ポリコレの問題や倫理の問題と言うよりは、要はリアリズムの問題なんじゃないかな。
すごくステレオタイプで分かりやすいからうける物語は、往々にして現実からエラく乖離していたりするんだよ、…と言う。
ただ同時に、「物語」って、そもそもステレオタイプな側面があるんだよなぁとも思ったりする。人間の心に元々ある定型みたいなものがあって、例えばある作品で具体的に「朝鮮族」を描いているように見えても、それは本当は個々の人間の心の中にあるその定型を描いているに過ぎないというか。
私がそれを強く思うようになったのは、『英国王のスピーチ』を二度目に観てからなんだけど。
あそこに出てくる「心理カウンセラー」はシェイクスピア・フリークみたいな人で、だから、「英国王」の治療に惹きつけられる。
From: @zpitschi
https://fedibird.com/@zpitschi/113399705817644235 [参照]
そして、そもそも、その人もそうだけど、何で世界中の人類が、シェイクスピアのようなそんな遠い国の王様の話に惹きつけられるかと言えば、人間はみんな幼い時に、幼い心の主観のなかでは、一度は、自分が生まれ落ちた家族の中での「王子」や「王女」だった時代があるからなのよね。たとえそれが虐待を受ける不遇の王子、王女だったとしても。
それは舞台が、中国になっても、韓国になっても、物語の原型は同じで、だからこそ、皆んな、感情移入して我が事のように物語を体験するんだろうなと。