私は、映画『スモーク』が大好きなんだけど、あの主人公のオーギー・レンというタバコ屋の雇われ店長?(ハーヴェイ・カイテルが演じている)には、ブルックリンにあるその店の前の四つ辻で、毎日欠かさず同じ時刻にその街角の写真を撮るというライフワークがあって、撮り溜めた写真を店の常連客の小説家ポールに、ある時、見せるのよね。
10年も続けてきた同じ街角の同じ時刻の同じ角度の撮影で撮り溜めた写真。ポールの目にはそれは「みんな同じ」でしかなくて、勧められるままに見始めはするけれど、最初、どこをどう見れば良いんだ?と戸惑っているんだけど、オーギーはパラパラとページを巡っていくポールを「もっとゆっくり見なきゃだめだ」と嗜める。
みんなおんなじに見えても、一枚一枚違う。季節も光の角度も道ゆく人の服装も表情も…。
私は精神分析の面接って、あの街角の写真みたいなものだと思ってる。注意深く見なければ、昨日と同じ今日。今日と同じ明日。その繰り返しに過ぎない。それは人生のようなもの。だけど、よくよく注意深く見て(聴いて)いるとみんな違う。人生とか日常とかも同じ。あのシーンというかオーギーの話が好き。
そのアルバムのシーンはそのあとに意外な展開をしていくのだけれど、それはここでは書かない。すべての物事には物語がある。
でもその面接では、目の前にいる人は何もしない。何もせずにただそこにいる。でもただそこにいるだけではなくて、「私に興味を持って」そこにいたbeing。
うちの親はそれとは正反対で、いつも自分の親としてのベストなパフォーマンスのために精一杯頑張っていたので、彼らの興味は自分のパフォーマンスに集中しており、こっちのことなんて見ちゃいなかった。
あの面接を受けて以降、私は今もそのセラピストが私の臨床の角になり続けている。ただそこにいて、ただひたすら相手に興味を持ち続ける。何もしない。役に立とうとか思わない。役に立たずにただ木偶の坊のようにそこにいるのが私のベストな仕事。
転移的に言えば、心理的な意味合いではそれが親の一番大事な仕事。(もちろん実際の親は「何もしない」で見ている訳には行かないし、やること山積みでいつもアップアップなのは分かるけど、それでも心の仕事はやはり自分はただそこにいるだけで、「受け手」の役を担うことはきっと一番大切だと思う)。
何もしない。何も起こさない。ただ木偶のようにそこにいて身を委ねる。常にそこで自然に起こる些細な変化を楽しみ興味を持ち状況を味わう。
角→核