私は憎しみとか侮蔑とかいう感情も人間のコミュニケーションにとってものすごく大切なものだと思っているので、それを押し殺したり無いことにしたりすることは非常に危険だし、第一無効だと考える。
ウィニコットの『逆転移の中の憎しみ』はそのようなことについて述べた論文。
心理療法の中では、治療者はそれを直接的に相手にぶつけることはもちろんしないわけだけど、それは立場の違いがあるからで、治療者は「相手の気持ちを受け止めて、それを言語化して本人が自ら咀嚼できるように辛抱強く付き合うことを引き受けますよ」と約束して相手に会っているから(そのために何らかの形で給料を得ているから)我慢に耐えている。しかし、直接ぶつけることは我慢するが、それを治療者が感じないようにすることは治療的とはまったく言えず、その感情をきちんと内側で感じて、相手の心を理解するために利用するという意味だ。
しかしそうでない、フラットな大人同士の関係において、不快なことをされたりぶつけられたりすることに耐えるのは、非常に不健全であり、むしろ、何だかよくわからない高いところに自分を置いて同情的に相手を見ることで自らの憎しみを解消しようとすることは、ある意味では「相手に非常に失礼」でさえある。
同じ土俵に乗りたくないと思う時に人は往々にしてそれをやるのだけど。相手を対等な大人として扱っていないことになるので。むしろそれはとても侮蔑的な態度とさえ言える。
例えば今の自民党や成田悠輔やひろゆき、多くの吉本芸人のような連中は、謂わば私たちに憎しみや侮蔑といった💩を投げつけてくるのだから、それに対する人間として正直で誠実な反応は憎しみや侮蔑の感情である筈だ。
それを「良くない感情」「あるべきではない感情」として無理に押し殺そうとすることは、不健全であり有害…というか幾ら押し殺しても感情が消えることはないので、むしろそのままにしていると、今度はこちらの心の中で腐っていき、余計に腐臭を放つことになる。
怒る時には怒る。憎むべきは憎む。侮蔑すべきは侮蔑して、場合によってはそれを言語化するということは、人間にとってはとても大切だと私は思っている。
日本人は総じて、怒りや憎しみ、うらみ、侮蔑の感情を自らの中で扱うことが苦手だが、自らの中できちんと感じて扱うことができないと、逆にどんどん心の中でそれらが腐って、自分で意識していない形でその腐臭が全身の毛穴から出るような、もっと始末に負えない状況を招く。
何で言えば良いのかなぁ。
要は、綺麗事で済まないことを、綺麗事で済まそうとするのは、人間として、自分にも他人にも、非常に不誠実な態度だと、私は思っている。
テメェ、舐めてんのか、コラ!
という感じ?
昔の民主党系の国会議員は、育ちの良い坊ちゃん、嬢ちゃん揃いで、国会で安倍晋三に散々舐められてるのに、全然本気で怒れなくて、喧嘩出来ない感じだった。
あんなに面と向かって愚弄されているのに、品良く「話し合い」で解決しようとし続けていて、私は見ていて本当に歯痒くイライラしていた。
相手は話し合いなどする気はさらさらなくて、完全にこちら(野党議員)を舐め腐って、…ってことは国民を舐め腐って、直接的に暴力的な態度を取っても良いと図に乗って、言葉を破壊して、議場を汚して、嘘を国会に充満させて、何もかもを平気で踏み躙ってきていると言うのに(言葉の上でどんなに丁寧でも、そこで起きていたのは非常に汚い暴力的、倒錯的なコミュニケーションだったのに)、民主党系の国会議員は、そのコミュニケーションを全て無視して受け取ろうとしていなかった。
今の立憲の議員は、あの頃に比べればだけど、だいぶマシになってきてる。喧嘩を買ってるし、罵倒もしている。
第一、あの頃の民主党(民進党)には、玉木雄一郎とかいたからね。内部的にもどんだけ欺瞞に満ちたものだったかと、今にすれば思いますよね。欺瞞は自らの内側も、相手との関係も腐らせる。