(Hemmi Tatsuoさんのツイート↓)
「史上最大のジェノサイドを絶対的悪に変えることは、宗教家・神秘家的なもの見方であって、歴史家的な見方ではない。こうした見方では悪は止まらない。反対に悪は蔓延していく。そしてこの悪は他の無実な者たちの頭の上に落ちていく。」(ドゥルーズ、1983年)
https://twitter.com/camomille0206/status/1788156750581071942?s=46&t=7ijHXvOVYdXMvERcNmfP7w
(引用されているBernard GEORGESさんのツイート↓)
"Transformer le plus grand génocide de l’Histoire en un mal absolu, c’est une vision religieuse et mystique, pas une vision historique. Elle n’arrête pas le mal; au contraire, elle le propage, le fait retomber sur d’autres innocents" #GillesDeleuze, 1983
https://x.com/bdgeorges/status/1788060829608231060?s=46&t=7ijHXvOVYdXMvERcNmfP7w
少し前にTwitterからコピペしたHemmiさんの、ドゥールズの言葉を引いたこのツイート。
私は馬鹿なので間違えているかも知れないので、あくまで「私の理解では」なんですが、ここに書かれている「史上最大のジェノサイド」とはナチスのやったことを指していて、それについてナチスを絶対悪に据えて、ユダヤ人をある意味で絶対善のような形で固定化する(した)ことについての言葉だと私は読みました。
そしてそれでは「悪は止まらない」と。「この悪は他の無実なもの者たち(今であればパレスチナの人たち)の頭の上に落ちていく」と…。
私は善悪をきちんと明確化して悪をしっかり糾弾して罰することは社会に間違いなく必要な機能で、そこを曖昧にすることは百害あって一利なしだと信じていますが(ナチスであれ大日本帝国であれ、現在のヘイターやミソジニストたちであれ)、
同時に、自分たちを完全な善人の位置に置いて安心して、悪人を責めて安心するだけだと、思考は硬直化して、大きな過ちの次の芽が育ってしまうと考える者です。多分、今、そういう人は増えている。だから例えば『ゲッベルスと私』のような映画が評判になった。
From: @zpitschi
https://fedibird.com/@zpitschi/112409582163796033 [参照]
もし自分があの時代のドイツにいたとして、ナチスに協力しないとか反対の声を上げるなんて出来たのか。またはそれよりもずっと手前で世の中がおかしな方向に進み始めていることを気がついて止められたのか。自分もその歯車の一部じゃなかったのか。あの熱狂する民衆にある要素は自分にはないのか等々(私たち日本人はほんの80年前の、私くらいの世代だと顔も見知っている家族が実際にこの国でのそのような時代を生きていたということがあるので、わざわざドイツを引っ張り出す必要はないけれど)。
要はそれはそもそも人間という種(またはその社会)に備わっている何かなんじゃないか。だったとしたら、「自分だけは例外で悪を罰する側。悪いやつをやっつけて良い人間だけの社会を作りたい…みたいなことを考えることから悲劇は生まれるんじゃないか(実際、今の自民党にしても統一教会にしてもかつてのオウムにしてもナチスにしても、本人たちは案外本気でそう思っていたりする訳で)」というところに思考を進めなければ、結局は同じことが繰り返される…。
私は、このHemmiさんの引いてくれたドゥルーズの言葉に、そういう意味を読み取ったので、こっちに貼り付けました。
私の理解が合っているかは分からないけど、私はそのように考えていたので、共感して。