昨夜観た『アメリカン・フィクション』と言う映画のことを改めて思い出している。
「世界でただひとりになっても、自分がこうだと思うことは誰かに奪われたりしたくない」という気持ちは私の中ではとても大切なものなんだけど、
賛同者(共感してくれる人)が誰もいないとか、誰かが「それは正しい」とお墨付きを与えてくれるのではないとか、本当にそんな状態でも、心に強く思えるかと言えばかなり心許ない。
ましてや「周囲の皆が怒り出したり嫌われたり軽蔑されたりするんじゃないか」「受け入れてもらえなくなるんじゃないか」みたいな恐怖のある中で、心の中で信じているのみならず、それでもそれを言葉として発言するということは怖い。
人間というものはそんなに強い生き物ではない。
しかし怖いからと言ってそれを捨ててしまうことは自分を捨てることだ。少なくとも私にとってはそうだ。
それが気にならない人もたくさんいるんだとは思うけど、私は最初に受けたセラピーでそのことに気がついたのだと思っている。それで自分を取り戻した。
少なくとも私にとっては、それが「私が私である」と言うことだった。
黙って心の中でだけ信じているという方法はある。そうやって自分を守れば壊されることはない。
以上、普段からずっと考えていることなんだけど、昨日の映画を観て、改めて考えた。
昨日の映画は、中心にあったのは黒人である自分と、それに対して周囲が持つある種のステレオタイプへの違和感の話だった(それに付随して例えばあのお手伝いさんに対して主人公が何となく当然こうだと思って見ていた、やはりある種のステレオタイプな偏見に主人公が気付かされるというようなサイドストーリーがあった)。
それは例えば、私に当て嵌めれば「レイプ被害者に対する世間のステレオタイプ」への子どもの頃からの違和感…みたいなものと重なる。「あのー。私は私なんですけど?」的な。
もちろん社会運動として、まとまって「ある共通点の下に」協力しあって闘うことはとても大切だということは言うまでもない。私もそのこと自体には賛同しかない。
しかし自ら行うことでも他者から与えられるものでも、ステレオタイプは魂を殺す。
どちらもとても大切なのだと思う。
私の、私としての、こだわりはむしろ後者に重点があるので(何故ならそれは私にとっては長らく自らの魂の死活問題に関わっていたので)、多分、それで私は今の仕事をしている。
前者の社会運動の重要性の方は私にとっては両親が生涯をかけてやっていたことで、私はその価値は理解している。