Twitterへの愛の話じゃないんだよ。
何ですぐにそう経営者や会社を愛したり憎んだり一体化したりと言う話になるかなぁ。
実際にはTwitterの機能を使った場所で、たくさんの反差別の認識も広まったし、運動の力にもなっていった。それらを自分の中の歴史として、悪いことも含めて、引き受けていかないのは、私にはある種の歴史修正主義にしか見えない。
そんなに清廉潔白を目指して、そこにも悪いものがあって「もっと綺麗な場所で生きたい」と言ってもそこにも必ずまた問題は生じる。
何でそんなにすぐに自らのアイデンティティと一緒になっちゃうんだろう?Twitterで起きていた悪いことに私たちも多少なりとも加担していたとして、それを考えるためにも切り捨てるべきではない。切り捨てても付いてくる。自分とTwitterを切り離して自分の問題は自分の問題として考えるべき。
ただのツールだし、リソースだし、そこには必ず問題も生まれる。そして、実際にはもう壊れようとしている。
壊れようとしている場で自分たちが受けた恩恵を、罪悪感からみんな切り捨てて、新しいもっと綺麗なものに生きたいって、その間の自分もないことにするのか?その間の自分を受け入れられなくて、新しい自分もないよ。
リスタートすれば今度は綺麗に生きられるのか。