なるほど。
(odd_hatchさんのツイート↓スレッド)
※新潮文庫版の表紙写真があったけど省略
カミュ「異邦人」を再読。これは、フランスの植民地のアルジェリアで、宗主国のフランス人が先住民であるアラビア人を射殺したヘイトクライム事件。そういう読み方をした感想はどこにもなさそう。
https://twitter.com/odd_hatch/status/1642813803019800577?s=46&t=7ijHXvOVYdXMvERcNmfP7w
語り手「私」は別に特異な哲学の持ち主というわけではなく、ウトロの放火犯や人権施設に脅迫状を送るような奴の同類だな。動機は「太陽のせい」というのも、ネトウヨの開き直りみたいなもんだろ。
カミュ「シーシュポスの神話」を読んだら、ドン・ファンを不条理な人間として解釈し、その特徴を「放蕩と背教」としていた。なるほどその特徴に当てはまる「異邦人」のマルソーはドン・ファンの生まれ変わり。
ドン・ファンは放蕩の背教のすえに、亡霊によって地獄に落とされた。20世紀の神のいない時代のドン・ファンであるマルソーは地獄に落とせないので死刑になる。つまり、カミュの「異邦人」は20世紀のドン・ファン伝説であるわけ。
「シーシュポスの神話」と「異邦人」は同時期に書かれているから、二書を読み比べれば、マルソー=ドン・ファンと読むことは可能なのに、そういうことを言っている人はググってもいなさそう。