これ、読んだ。確かマストドンで誰かが紹介してくれてたから(誰だったか忘れちゃった。すみません)。私も全共闘と全学連の区別がついてなかったので。😅

思想としての全共闘世代 (ちくま新書) amzn.asia/d/09ecwfZ

結局文字面だけ追ってても、当時の状況はよく分からなかったけど、“騒ぎ“が終わったあとの第6章の70年代以降の体験が、自分の体験と非常に重なっていて驚いた。

私は70年頃は小学校の中学年くらいで、うちは渋谷だったので自宅の目の前で機動隊と学生の衝突を野次馬根性で2階の窓からかぶりつきで見てたけど(催涙弾で涙流しながら)、両親は共産党員だったから70年の頃の学生の暴力的な運動には心理的に距離を取ってたし、私も何もシンパシーを感じたことは無かったにも関わらず、小阪さんの70年台後半のアパシーみたいな心理状態は(軽い解離というのはその通りだった)、少なくとも高校生の頃には共有していた事に驚いたのだ。あれは時代の空気だったのか…私個人の体験ではなく。

これが書かれたのは2006年だそうなので、そこからまた20年近く経っていて、その間には本当にずいぶん世の中変わってしまったけれど、今、改めて読むことで考えさせられることも多い気がした。

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あ、それと、小阪さんが言っていた「時代につかまる」だったか「飲み込まれる」だったか、忘れたけど、要は「時代の中で個人はそんなに自由ではない」的な感覚は私も持っている。皆んな自分の意思で生きているつもりかもしれないけど、実際は、時代の大きな波に襲われた時に私たちは本当に嵐の海に浮かぶ小舟のような存在だ。

昔から私は、自分がもしあの頃の学生だったら、一歩間違えたら山岳ベース事件の現場にいて、人を殺したり殺されたりしているかもしれない(あの場にたまたま居合わせてしまったら、もう逃げる術はなかっただろうし)。あの時代にあってそれを免れることが出来たとしたら、それはたまたま運が良かったと言うことなんじゃないかと思っている。

以前に、私が2度目に受けた分析的心理療法で、分析家(元ラカン派でその頃はフロアディアンを自称していた)がそれを全然理解してくれなくて「〇〇さん(←私のこと)はそんなことしないでしょう」と言ってきたのには失望した。そういうオプティミズムには私はついていけない。

私は自分も含めて人間というものをそんなに信用していない。人間はあまりにも弱い。その自覚があって初めて、多少は抵抗ができる…その程度の存在だと思っている。

なんて考えながら、今、フロイトの『集団心理学と自我分析』を読んでいる。

話が少し脱線したけど、自分たちの先人が(親たちやその親たちの世代が。全共闘世代は私から見ると親ほどは離れていないんだけど)何を考えて、どんなことをしようとして、何を間違えて、どう挫折してきたのかという話は、少しでも知っておいて損はないよなと、この本を読んで、改めて思いました。

小阪さんも書いてたけど、本当にあの世代があ結局何をしてたのか、あんまりちゃんとまとまった形になってないんじゃないのかな。

読んでたら、「案外、今も似たようなことしてたりして」と思った部分もあったし。

歴史は繰り返すからなぁ。

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