私自身がそうだったけれど、日本の多くの家庭では、子どもに本人の気持ちを訊ねたり、意見を求めたりと言うこと自体ほとんどしないのではないかな。そりゃあ「今夜の夕飯何食べたい?」くらいの話はするだろうけど。真面目な話を言語化して話し合う習慣がない家庭の方が多いんじゃないか。
よく言えば阿吽の呼吸で分かり合えるというか…。言葉にしてしまうのは照れ臭かったり野暮だったり水臭かったりする(他人行儀にして距離が出来ることは関係が冷たくなるようで親子で恐れてしまう)と言う無言の了解がある。実はそれでは人権の感覚は生まれない(育たないと言う以前に生まれない)。
私は大人になって、…と言うか、いい年になってから、初めて心理療法を受けたのだけど、いちいち気持ちを訊ねられ、それを言葉で説明しなければならないことにかなり戸惑い、困ったし、同時に初めて自分の気持ちを誰かにちゃんと訊いて貰った(“聴いて貰った“でもあるのだけど、それ以前に“訊かれた“のが新鮮だった)感動があった。
「そう言やあ、親にそんなことされたことなかったな」と思ったものだった。うちは特別酷かったのかも知れないけど…。
多分、思うに一般的に日本の家族は、真面目な話を(良い話も悪い話も)家族で言葉にして伝え合う機会がとても少ないのではないか。
基本的人権の感覚は、相手が子どもでも女でも、相手が自分とは違う一個の人間としての人格を持ち、自由意志が尊重されるべきであると言う感覚だ。
だからまずは大前提として「あなたと私は違う。別の人間である」という事を受け入れないと始まらない。
日本の家庭にはそのような意識がまだ共有されていないだろう。学校教育以前の話だ。
むしろ日本の学校の管理教育はその家庭の土壌があってこそ成り立っていると思う。