昔から思ってるし、ちょくちょく今も感じることなんだけど、「謙虚であれ」ってことさらに言う人って、自らの内なる傲慢さと戦って組み伏せようとしている人のような気がします。
そもそも謙虚さって努めて持つものではなくて、自然と湧いてくると言うか、つまり自分は大したことがないと言うことを“事実として知っている“または“時々うっかり忘れちゃうけどその都度思い知らされる“状態であって、“心掛ける“ようなことじゃない。ましてや自らに“言い聞かせ“ているような状態って、何だかとっても不自然でわざとらしいと言うか、なんとなく嘘くさい気がしてしまう。

今、私はある知り合いのそういう時の仕草を頭に思い浮かべながらこれを書いているのですが、もう何年も会ってない人なのに、そう言う時のその人の一所懸命謙虚に努めようとしている姿は妙に脳裏に残っている。それがそんなに気になるのは、もしかしたら自分もそう言うところがあるからなのかもしれませんが。

私の父もそう言う人でした。そして、子どもの頃の私は彼に何度か思い上がるなと、謙虚たれと、教え諭されたことがあり、一応それは心の中で反芻して生きてきたけれど、彼の振る舞いや私自身の振る舞いを思うに、その頃もやはりそれは何かどこか間違えている気がしてならなかったんです…子ども心に。

もう少し続きを書こう。

つまりネガティブな感情も思い上がりも不埒な思いも、人間なんだから無くすことなんて出来ない。それを無くせると思っている時点で思い上がりだと思う。人は自分の心をすら思い通りになど出来ない。そんなカッコ悪い自分という内的現実と、自分の願望にも関わらず、当たり前のことだが全然思い通りにならない外側の現実…両方があることに気づいていて、それらを前に七転八倒している自分であり続けるしかないという現実と、何とか折り合って生きていく…というのが人生でしょ?というか、…それ以上のあり方などないと思う。

その心の内側と外側の、どちらも思い通りになんかなってくれないリアルの間には常にギャップがあって、そこで喜んだり悲しんだり怒ったり失望したり…必死でやっていたら「謙虚になれ」とか何とか自分に言い聞かせているような余裕は無いと思う。それどころじゃないっしょ?って。

私はある時期から、割とそんな感じで生きられるようになって(ある時期=自分の最初の心理療法を受けてから)、なんかかなり生きるのが楽になった気がする。父親に教わった生き方よりも、無理がなくなった気が。「謙虚たれ?…知らんがな」みたいに。自分にこうあるべきとかあああるべきとか言わずに、もっと自分のために“損得ずく“で素直に生きてる気がする。

じゃあ、その心理療法で何をしたのかと言えば、何か楽な生き方を教わったとか、考え方や認知の間違いを直してもらったとか、優しく愛情を込めて励ましてくれたとか、「あなたはあなたのままで良いんですよ!」と承認してもらったとかでは全然なくて、今から振り返って考えてみるに、敢えて一言で言えば「(何かを)体験した」と言うことだと思う。“何か“というのを言葉で表現すれば“自分であること“かなぁ。頭で考えるのではなく、何をしているのかも全く分からないままに、ひたすら何かを体験していたんだと思う。怒ったり泣いたり喚いたりしながら。

久しぶりで思い出してみると、今の私はまだまだ自分があのセラピストにして貰ったことを出来ていないなぁとちょっと凹む。本当にあれは私にとってはそれまで体験したことのない、とても贅沢な時間だった。

それで、何がどう楽になったかと言うと、例えば、自分が調子に乗って恥ずかしいことをしてしまった時とか、間違ったり分からなかったりして恥かしい思いをした時とかに、または内心でも良いです。表には出してなくても自分の傲慢さに気づいた時とかに、もちろん恥ずかしいし、穴があったら入りたいと思うこともある訳ですが、それをかつてよりは引き摺らないんですよね。多分、以前の自分だと、それをずっと引き摺る。何故なら自分を許せないし認めたくないからです。出来ることなら事実を消しゴムで消したい…と言うか、どこかで消せると思っているので、心の中や外で消す算段をする。例えば、心の中で言い訳を繰り返すとか、犯してしまった過ちをカバーするほどに頑張ろうとするとか。そうやって自分ではとても受け入れられないカッコ悪い自分を消そうとする心の状態は、要はどうしても自分にまつわる事実を事実として認められない、…その苦痛に耐えられない状態なので、つまるところ、いつまで経っても“反省“ができないんです。

ここでピンときた方はいらっしゃるでしょうか?

私が思うにおそらくそれは、日本は過去に大きな過ちを犯したから巨額献金をしないと言われて必死で献金をしてしまう統一教会の信者さんの心持ちに、私は通じる気がするんです。過去を打ち消そうとする心性です。

もちろん私はここでそのような信者さんを責める意図は全くありません。ただ、疑問に思った人は少なくないんじゃないかと思うのですが、歴史修正主義や民族差別をするようなネトウヨと、過去の国の過ちを責められて必死で献金してしまった統一教会の信者さんと言う、一見完全に相反する存在を繋ぐ場所に、あの安倍晋三がいたことについて。

私も何が起きているんだろう?と、あの安倍さんが殺された事件の後、統一教会の問題が露呈していく過程で、その一見すると大きな矛盾点に見えることについて、ずっと考え続けていました。

で、考えた末に私の中で閃いたのは、上記のようなことです。つまり、ネトウヨも信者さんたちも、とてもではないけれど自分として受け入れられない事実に耐えられず、前者は完全になかったことにしてしまう。後者は穴があったことは認めるもののそれを何とか取り返そうとする。実際には私たち日本人は、過去に取り返しのつかない罪を犯したのであり、その事実は消すことは出来ないので、反省する以外にないのですが。

そしてその結節点に安倍晋三がいたと言うことの意味は、まさに彼がそれを認めない日本の象徴であることで説明がつきます。別の言い方をすると戦後のそのような日本国の態度がネトウヨや統一教会の犠牲者を生み出した。

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前述のように、その心のありようは、私自身がずっと体験し続けていたことです。日本の戦争犯罪自体は私は子どもの頃から親に教わっていて(親は左翼でした)それを疑ったこともないので、それは私にとって受け入れ難い事実ではなかったのですが、個人として「やっちまった」恥ずかしいことに耐えられずに、いつも心の中でグジグジと言い訳をしたり、全部無かったことにできるほどのパフォーマンスを示して過去をカバーしようと、実現不可能な空想をしてはまた大言壮語し撃沈…みたいなことは、情けない話ですが、散々繰り返してきたわけです。流石にあからさまな歴史修正(事実自体を無かったことにするとか誰かのせいにするとか)はそんなにはしていないと思いたいけれど、それだって、小さいレベルでは山ほどしていると思います。何故ならそれって誰でもやることなので、「私に限っては絶対にやってない」なんてことは、論理的に考えて、ありえないからです。

なので、ネトウヨの気持ちも本当は分からないでもない。彼らは自分の中にあるダメさ加減をどうしても受け入れられないがために、逆に他人前であそこまでどうしようもない振る舞いをしていても自覚さえすることができないのです。もちろん私はだからと言って彼らに同情すべきだとはこれっぽっちも思わない。

何故なら、それをもし誰かがやってしまうと、彼らのそのどうしようもないあり方をむしろ助長してしまう結果にしか繋がらないからです。いわゆる依存症などで言うイネーブラーになってしまうのが関の山です。

彼らはそれが自分の問題で、自分で何とかするしかないと言うことに、出来たらなるべく早く、…でもそんなこと都合よく早く出来るものでもないので、まぁどこかで気がつくしかない。そしてそのことに自分で向き合っていくしかない。そのためにも、彼らの問題をこっちに投げつけてきたら、しっかり跳ね返して軽蔑して叱ってやるのが正しい対処の仕方だと私は思っています。そのことで少しでも彼らが自分の問題に気づき向き合えるようにしてあげることは、むしろとても親切な態度だとしか思えません。親切すぎるくらいです。そうではなくお為ごかしの下手な同情で何とかできると考える人がいたとしたら、それはむしろその人の思い上がりだと思うし、彼らの苦しみの深さへの共感が足りなすぎるとすら私は思います。そしてそう言う舐めたことをすると必ずしっぺ返しを喰らいます。

「言い分はおかしいと思うし受け入れられないけど、人はいつか変わるだろうし、自分の意見を言って場が悪くなる事は避けたい。
110さんは自分の意見が言えて凄いね!」
と、差別論者やコロナ死は弱者の定め論者を見守り続けたいんです!と言った人を「優しい自分でいたいだけ」の自己満足にしか思えず、その人との関係を断ちました。

当の本人は「まめにコメントやリアクションをくれるいい人」のポジションが安泰と感じるのかもしれないけれど、言いたい放題を黙認している=一見同類でありつつ、彼らの目が届かないところで彼らに反論する、そういう関係は不毛だなぁと。

「もしかして何か気に障る事をしちゃった?だとしたらお詫びしますけど…」と言われても答える気にもならないし、何も思い当たらないという事が色々物語っているかな、という気がします。

対話する、それが叶わないなら一線を引く、これって大事な事だと思います。
(自分がそうされる側になる事も含めて)

@110 そう言う人って(特別珍しい人ではなくて、日本ムラではフツーにいる人)、「私とあなた」の関係の中で生きているんですよね。「私とあなた」だけで成り立っている世界では、お互いの機嫌を損ねないとか、気持ち良くするとか以外のスケールがない。私とあなたの次の3番目のポジションにある、社会とか、公共とか、真実かどうかとか、道理が通っているか、とかには無頓着でいられる世界の住人なんだと思います。つまり「(現実)世界」が見えていない。彼らにとっては、快不快の互いの気分だけで世界が成立しているし、それを互いの気遣いでどうにでもコントロールできると思っている。とても万能的な世界の人たち…が、日本人にはあまりにも多くて、今、日本はこんな悲惨なことになっていると思われます。

@110 これなんかも、同じ話ですよね。彼らは気の毒な人ではあるけれど、それは彼らの問題であって、パートナーとか、周りにいる人とか、ましてや見ず知らずの女性やマイノリティが世話してやる(機嫌を取ってやることも含めて)ような話ではない。
twitter.com/tkatsumi06j/status

3番目のポジションがない!!
悲しいかな、とても腑に落ちます。
そして彼らは別の視点からは3番目に属するという意識がないのに、こちらが話す3番目の話には乗ってくる事が私にとってはとても嫌だったんだ、という事も。
(その視点をありがとうございます!)

あなたと私、その他大勢の関係性の外には別のあなたと私、その他大勢があって、自分のポジションはその場その場で変わる。
「あなたは私、私はあなた」である事を忘れないように、時々情けないくらい無邪気にやらかしてしまう事もあるけれど、そういう時はしっかり恥じて反省して立ち返る、それをちゃんと指摘してくれる人間関係を持っていたいと、私は思います。

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