中国のデモ、民主化運動が中国でも始まったと言うのは凄いことだと思うけど、そのきっかけが0コロナ政策だったというのが、何というかとても複雑な気持ち。もちろん中国政府のやり方があまりにも強引で酷かったことも事実とは思うけど、何週間か前のあかたちかこさんのキャスにゲストで出ていた中国で中医をしてる藤田康介さんが、中国の場合、先進国のような医療が受けられるのは限られた都市部だけで、地方の農村地帯はまだまだ医療体制は非常に脆弱なので、感染が全国に拡がると医療では対応しきれなくなるから0コロナ政策にするしかないんじゃないかと言っていた。もしそれが本当なら、都市部の人たちのデモで農村部の人が犠牲になる事にならないですかね。私にはよく分からないけど。それに今の日本のように感染拡大して、自由になっているかと言うと甚だ怪しい。何となく複雑な気持ちで、デモの様子を観ています。
https://youtu.be/sHEAcOXBOvI
つまり、フロイトの快原理と現実原理の話で、もちろん人権がきちんと守られることの要求は当然として、0コロナ政策に関しては、目先の自由を優先することで将来的に必ずしも自由でも安全でもない状況になってしまう可能性は高いんじゃないかと思うし、そこから得られる利益や不利益にはもしかすると中国国内でかなり大きな格差があるかもしれないこと、また一旦パンドラの箱を開けてしまったら、他の国がそうであるように、おそらくはもう2度と元には戻せなくなることが予想されるわけで、本当にそれで良いのかと言う問題は、結構悩ましい話じゃないのかな。それって、環境問題とかエネルギー問題とか、皆んなおんなじですよね。目先の快を求める権利も人権かも知れないけど、全体のこと、将来のことまで見通して、より良い選択についてよくよく考える義務は、主権者である市民自身が持つ必要があるんじゃないんですかね。隣の芝生は青く見えるかもしれないけど…。もちろんそのために一人一人の人間の人権があまりにも暴力的に踏み躙られる…みたいな事は許されないと言うのは、まずは前提ですけど。
不都合な現実でも現実を現実として受け止めて、長いスパンの時間軸できちんと現実への想像力を使って、目先の利益よりも、将来まで見据えた利益を考えて、報酬としての満足の先延ばしをする能力が人間の現実原則。民主主義社会の政治って、別にそれを上から押し付けられてではなく、主権者が話し合って考えて、その認識を共有して、実現していくプロセスですよね。デモをしている中国の人たちは、動画を見る限り、マスクしている人が大半だし、きちんと自分たちの論理を持って、理性的に行動している人たちに見えるので、目先の快を求めて暴れている人たち(例えばノーマスクの人たちのような)とかでは全然ないと思うんだけど、もしかしたら、コロナ自体から生じている苦痛を中国政府のせいだと思いすぎているところはないのかなぁ。
「せっかくビーチに遊びに来たのに、遊泳禁止なんて嫌だ!」という行楽客と「ホオジロザメがビーチにいるなんてことが大っぴらになったら、市の評判が地に落ちちゃうじゃないか」という市長のお互いの願望が一致しているときに、ロイ・シャイダーは無粋なことを言う邪魔者でしかないんだよね、行楽客にとっても、市長にとっても。
…子どもの頃に観たきりなので、記憶が曖昧だけど、確か「ジョーズ」ってそんな話でしたよね。
「オバケなんかないさ、オバケなんか嘘さ」って、皆んなと一緒に歌って、皆んなの海水浴を楽しむ権利と市長の市の発展を夢見る権利の味方をする方が楽だけれど…みたいな。
でもさ。ホオジロザメは現にすぐそこにいるんだよね、って言う。
今、Twitterで、これ↓を見て「中国の民主化運動は素晴らしいことですが」みたいに書いていた自分が恥ずかしくなった。「オマエ(私のこと)、ソレ言うの、100年早いから」と。
https://twitter.com/sohbunshu/status/1597372662330044417?s=46&t=lIH2NX1iNUXl65omcH5ykQ
↑失礼、同じツイートを2回貼り付けてしまった。削除しても他のインスタンスには残るとのことなので、下に繋げて訂正します。
それにしても「民主主義とは、ガバナンス(支配)と民意の拮抗の上にある」は全くその通りだと思う。民主主義って、ある固定された理想的な状態を意味しているのではなくて、力の拮抗状態を維持するシステムなんだよね。だから、常に生き物のように動いている。安倍政権(やそれに連なるスガ政権や岸田政権も)はそのシステム自体を破壊しようとしている。まぁ宋文洲さんに言わせればそれもまた民主主義のプロセスということになるのかもしれないけど、日本の場合、その権力の横暴に力で拮抗するほどの民衆が存在しない。
しかし、改めてこのスレッドの最初のトゥートに戻ると、ただの力の拮抗だけでは、やはりなかなか目先の快と不快の戦いだけになってしまった場合には、どこまで経っても深まらない(思考が始まらない)という欠点があるんだよな。それだけだとアウフヘーベンが起きないというか、人間が賢くなっていかない…現実原則に向かわないのよ。やはりそこには双方の力がぶつかり合ったところで少しずつ思考が深まるというプロセスが重要。難しいですね。あまり激しくぶつかり合っていると、相手を倒すことに夢中になってしまってそのプロセスに至らない。あまりにも緩くて異質なものに出会う葛藤を感じられないと馴れ合って自他の区別がなくなってしまって、それはそれで何も始まらない。もっとも現実には権力勾配がない世界はないわけで、自他の区別がない混じり合って一体化した世界と言うのは幻想に過ぎないんだけれども。
最後の一文、「米国の脅威になった」の部分はともかく(力がすべてか?とは思うので)、これも、それ以外の点では、ぐうの音も出ない。日本人はまだ民主主義を知らない。知らないおもちゃを戦後せっかく与えてもらったのに、結局宝の持ち腐れで、もうじき壊してしまいそうになっている。「平和ボケ」と言う言葉は権力者と戦ったこともないことを指すんじゃないかな。
https://twitter.com/sohbunshu/status/1597377434286174208?s=46&t=lIH2NX1iNUXl65omcH5ykQ
https://twitter.com/sohbunshu/status/1597377434286174208?s=46&t=lIH2NX1iNUXl65omcH5ykQ