第二言語への習熟感って、最初は「知ってるフレーズを使えそうなタイミングで言う」に始まって、「母語ならこういうふうに言えるが、そこまでは言い方がよくわからないので、妥協してこういう簡単な言い方にせざるを得ない」という感覚に延々と悩まされて、だんだん「この言い方とこの言い方ができそうだが、自分としてはこちらのほうを採りたい」というのが増えてきて選択権が広がっていく。そしてそうやって「選択できるものが十分にある」という感覚が習熟感の大きなところを占めていると思う。母語だったらこういうだろうという表現があるとして、それと“同一”の表現ができるようになる必要はない。そんなことはできないし。