ハイデガーの死の覚悟はやはりおかしい。人は生きるために死を見つめないとおかしな方向に行く気がするのだ。
キリストの死が復活であるように。キリストは人が生きるために十字架にかかったと言う。死ぬことなど決してすすめない。
キリストは復活(よみがえり)であり、生命(いのち)なのだ。
殉教は決して何か覚悟とは違う。人の生命(いのち)に関わるものだ。そして、何か英雄的なヒロイズムとは一線を画す。
ラザロはキリストにより死からよみがえる。キリストがいるという、そのことにより。
シモン・ペテロはビビりだ。でも、彼は殉教した。クオバディスと呼びかけて。