25年前に通読したルソーの『告白』を再読。なんと、7-8割方記憶から消えていた😭 。
ま、しかし大部の書物を思ったより早く読めたのは、かつて読んだ記憶が+になったのかも、と考えることにする。
ところで、自伝というジャンル、丸山眞男が『福翁自伝』に関して「自伝というのは嘘を書くに決まっているのです!」と断言したように、現在の書き手の視点から意識的・無意識的に再構成されるもの。文学理論的にはこれを「自伝契約」と呼ぶ。
例えば加藤周一さんの有名な『羊の歌』はサブタイトルに「自伝的小説」とあるように、明確に小説的部分がある。
ただし、1930年代日本ファシズム下の閉塞した状況の内側で一青年がどう感じたか、という点では史料的価値は高い。
ただし、歴史史料として扱うには他の同時代的史料による裏づけは当然必要になる。
ただし、ルソーのような大思想家の場合は、意図的な「嘘」、あるいは叙述の配列によって与えようとする物語に、思想家の感受性、思想の質が現れるので、それ自体独立して分析の対象とできる。
ただ、ルソーの『告白』、現在日本の「普通の」基準から見ると、かなり驚きを与えるだろう。ここは「歴史的距離」をもって読むことが必要である。
25年前に通読したルソーの『告白』を再読。なんと、7-8割方記憶から消えていた😭 。
ま、しかし大部の書物を思ったより早く読めたのは、かつて読んだ記憶が+になったのかも、と考えることにする。
ところで、自伝というジャンル、丸山眞男が『福翁自伝』に関して「自伝というのは嘘を書くに決まっているのです!」と断言したように、現在の書き手の視点から意識的・無意識的に再構成されるもの。文学理論的にはこれを「自伝契約」と呼ぶ。
例えば加藤周一さんの有名な『羊の歌』はサブタイトルに「自伝的小説」とあるように、明確に小説的部分がある。
ただし、1930年代日本ファシズム下の閉塞した状況の内側で一青年がどう感じたか、という点では史料的価値は高い。
ただし、歴史史料として扱うには他の同時代的史料による裏づけは当然必要になる。
ただし、ルソーのような大思想家の場合は、意図的な「嘘」、あるいは叙述の配列によって与えようとする物語に、思想家の感受性、思想の質が現れるので、それ自体独立して分析の対象とできる。
ただ、ルソーの『告白』、現在日本の「普通の」基準から見ると、かなり驚きを与えるだろう。ここは「歴史的距離」をもって読むことが必要である。
ルソーの『告白』、当時の性規範的にもややスキャンダラスな面もあり、死後出版の前提で書かれた。
ルソーは1778年に死去するが、第一部は81年、第二部はフランス革命の前年88年に出版。
ところで、ルソーの『社会契約論』は、フランス革命、その後の1871年以降の第三共和政において、国民統合を正当化する「聖典」として普及していくが、『告白』の方は、20世紀前半においても一種の禁書的扱いだった。
R.マルタン・デュ・ガールのー日本でも有名なー『チボー家の人々』の冒頭、主人公ジャックが『告白』を密かに読んでいる所を見つかり、叱責される場面が出てくる。
これには性規範的に、18世紀よりも19世紀の方が「厳格」になり、また女性の地位も低下してWWIに至った背景がある。
サルトル、ボーヴォワール世代は『告白』は勿論、今では仏文の聖典であるボードレールさえも一種の禁書扱いだった。
仏で女性参政権が与えられるのはWWII後。性規範の大衆レベルでの変化は1968年以降である。
従って1949年の『第二の性』が広く読まれるようになったのも68年以降。
ただその際クリステヴァ・イリガライなどの「差異」派によって普遍主義=同化主義派とレッテルを貼られる。
再評価は21世紀に入ってからである。
[参照]