2023年の司法予備試験の合格者数は最多の479人とのこと。これはほぼ旧司法試験時代の合格者数である。

 ちなみに予備試験合格者とはロースクールに行かずに(卒業せずに)司法試験に合格する人のこと。

 近年では東大・京大などのロースクール卒業生ではなく、予備試験合格者がまず「優等」と見做され、就職にも有利になる。また検察・判事志望者は予備試験合格がハードルになる。

 実際、現在では司法試験合格者の25%以上が弁護士登録をしない訳だから、ロースクール経由の合格者には「冬の時代」である。

 さらにこれに毎年千人規模の「法務博士」(結局不合格で行き場所がない人達)が続く訳だから、米国の制度をコピーしたロースクール制度は完全に破綻している。

 これは法文化と労働市場の違いも大きい。独などでは法学を修めた者には、弁護士でなくても企業法務などの専門職の道が開かれる。また「ギルド」としての横断的労働市場もある。

 日本で不合格が決定するまでロースクールに通った人は30前後になり、まず「行き場所」がない。

 また「自己責任論」を内面化した上に、「統治する側」に身を置くから、もうこれは「ネトウヨ」になるしかない。

 親がカネやコネがある場合は極右として地方議会に進出し始めている。これは大変な事態である。

 法文化の違いは一見地味だが興味深く、重要な問題である。
 欧州の大学はボローニャのように自由七芸(リベラル・アーツ)の後に法学部で法曹を養成。「ヴェニスの商人」のポーシャなどは「ボローニャ大学博士」を名乗っていたのでは?

 それに対し英国はオックスブリッジでには法学部はなく、法曹はギルドで養成。

 法システムとしては大きく大陸法と英米法と別れるが、米国は「リベラル・アーツ」の後に専門職大学院としての「ロースクール」に行く。

 大陸法は大きくフランス法系とドイツ法系に分かれ、共に「ローマ法継受」を主張するが、ローマ法といっても長いので、どの時期のどの部分を応用するかによってかなり違いが出てくる。

 例えばローマ法は大きくは英米法地中海商業の広がりを反映して「国際私法」的な部分が多く、また官僚組織が脆弱だったこともあって、行政法的な部分は少ない。近世にローマ法「継受」が行われる場合、官僚養成に適した形に変形された。

 イングランドはローマ帝国崩壊後、ローマ法の遺産は一切残らず、「コモンロー」というローマとは一切切れた法システムが支配的であり、トマス・モアやフランシス・ベーコンなどが「大法官」を務め、時代に拠る幅はあったものの結局「ローマ法継受」は経験しなかったのである。

 法文化の相違、とりあえず大陸法とコモンロー(英米法)に分けられるが、この境界は「絶対的」なものではない。

 英国にも13世紀にローマは侵入しかけてけれども、これはイングランド・コモンローの担い手である法律家階級によって概ね阻止された。

 また大陸法といってもフランス法とドイツ法では大きな違いがある。

 ナポレオン法典というと、フランス革命のイメージが強いが、実際にはパリを中心として発達していた慣習法と自然法の妥協。仏民法の特徴とされる均等相続は北フランスの人口の大部分で革命前から長期に渡り採用されていた。

 逆に93年のジャコバン立法で定められていた「嫡出子」と「庶子」の撤廃は、ナポレオン民法典で廃止。

 いずれにせよ、仏ではこの「コード・シヴィル」が基本連続したので、19世紀末までは、これにコメントをする「註釈学派」が主流で、創造的な法学は発達しなかった。

 これに対し、統一国家が不在だったドイツでは、サヴィニーをはじめとする大学教教授達が、「ローマ法継受」と概念法学を掲げて、法律学が知的に、また立法においても大きなプレゼンスを示す。

 「権利における闘争」のイェーリングは当初、この学派のエースであったが、中途概念法学を批判して自由法学に転じた。

 概念法学と自由法学の違いは改めて。

 概念法学は、法体系を公理・定理・証明という幾何学の方法によって構築することで、法に普遍性を持たせんとする。サヴィニーを嚆矢とし、プフタ・ヴィントシャフトと繋がり、1900年のドイツ民法典起草に大きな影響力を行使。

 しかし考えて見れば、サヴィニーはかのグリム兄を一番弟子とする「自然法的普遍主義」を批判するドイツ歴史主義の中心人物でもある。また「アテネウム」とベッティーナ・フォン・アルニムを中心とする初期ロマン派のサークルに所属。サヴィニーの妻はベッティーナ、詩人アルニムの兄弟姉妹(詩人ブレンターノの妻も)。

 またサヴィニーは啓蒙法学を嫌い、ローマ法継受を概念法学によって基礎づけると主張。つまり法学的にはロマニストの親玉。他方、グリムは民話収集を通じて、ゲルマニストの創始者となる。

一見訳が分からないが、これはナポレオンによって神聖ローマ帝国が解体されたのを受けた、「ドイツ統一」の文脈に置くと、辻褄が合う。

実際、フィヒテは「ドイツ国民(民族ではない)に告ぐ」をベルリンで講演、フンボルトによって開学されたベルリン大学総長にサヴュニーは招かれ、プロイセン王太子の教育係となり、後宰相。

ヘーゲルはベルリン大学でサヴィニーと激しい権力闘争を繰り広げたが、最終的にはサヴィニーの勝利に終わった。

 

 さて、日本では童話で有名なグリム。これも「民衆」の習俗を知るための「民俗学」の一環です。

 近代文献学・言語学の祖としてのグリムは、ある意味日本の本居宣長にあたると言えましょう。

グリムは言語学・民俗学を通じて、ドイツの「大和心」、「もののあわれ」を探索・構築せんとした点でも宣長・柳田国男に通じるものがある。

と同時に概念法学を掲げるサヴィニーが、ドイツ国民の実情に対応する立法作業を行うプログラム。

 つまり、日本の比喩を用いれば宣長、柳田だけでは権力機構としての「国家」は立ち上がらない。
 日本の場合、水戸学を掲げた下級武士達が国家建設を担当し、豪農出身の国学は排除された。

 しかし国民国家である以上、国民=常民の習俗・感情は無視できない。柳田国男が農政官僚であったことは偶然ではない。
 またサヴィニー、グリムが属したドイツ・ロマン派によって「感情」が啓蒙的理性に対するドイツ人の紐帯となる。

この場合「ドイツ」の範囲は神聖ローマ帝国。しかも中世から「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれ、仏よりもローマ法継受が大規模でなされていたため、サヴィニーにとって、こんな好都合な状況はない。

問題は、統一法典の作成と発布の次期だけ。ここがティボーとの論争の賭金。ヘーゲルのこの際ティボーの側に立った。

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 ドイツではおそらく「知らぬ者はいない」サヴィニー、日本では対照的に極度に無名。

 しかし、カール・マルクスの名を知らぬ人はいないでしょう。

 実は、マルクスは1838-39年ベルリン大学でサヴィニーの講義に出ていました。この時のマルクスは父の後をついて弁護士になるか、ないしは義父の後援にて大学教授を目指していた。

 ヘーゲルは1831年には死去。残ったヘーゲル派のガンスは周縁化され、マルクスにとってはサヴィニーがモデルとなった。

 しかし、プロイセン開明官僚としての漸進的な「改革」派のサヴィニーに次第にマルクスは距離を置くようになる。所謂青年ヘーゲル派=ヘーゲル左派に接近するのはこの時である。

 初期マルクスと言えばヘーゲル批判が着目されるが、実はマルクスが精力的に批判していたのはサヴィニーだった。ルーゲと共同編集の「ライン新聞」でもマルクスは「官僚法学」=歴史法学を批判する。

 有名な入会地問題で国家法(ローマ法)に対してマルクスが貧民の慣習的権利を擁護する根拠としたのが「ゲルマン法」の伝統だったる。

 事程左様にヘーゲル、グリム兄弟、ブレンターノなどのドイツロマン派、サヴィニーと次世代のマルクス、B.バウアー、M.シュティルナーなどのヘーゲル左派の関係は錯綜しているのです。 

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