8月6日広島に原爆投下された時、丸山眞男は二等兵として徴兵され、呉・宇品にいました。
原爆が爆発した際、ちょうど軍施設の建物の前に整列させられており、丸山は鉄塔の影に隠れる場所にいたため、直接の被曝は免れました。
しかし、猛烈な爆風のため、上半身が吹き飛ばされて亡くなった人もいた、ということ。
翌日には救護のため、丸山は広島市に入って、その惨状の中で数日間作業に携わる。ここで決定的に被曝したのです。
戦後、丸山は肺・肝臓など繰り返し重度の臓器疾患で数度の休職を余儀なくされるが、これはおそらくは被曝の後遺症だったと思われる。
本人はあまりのショックのためー現代のPTSD理論で知られるようにー戦後20年、その際のリアルな記憶を「消していた」。公にはじめて語ったのは1965年8月15日の記念集会の際。
またその後、ハーバードにおいて、「原爆投下は戦争である以上やむを得なかった」という「リベラルな研究者」と「侵略責任と原爆投下は別」とする丸山は激しい議論を応酬。
丸山は遺言で葬式の際の香典類は「原爆被災者または原爆被災者法の制定運動に寄付」とし、遺族によって第五福竜丸平和協会に寄付された。
他方、丸山眞男を1986年「諸君」に醜い誹謗中傷パンフレットを発表した加藤尚武はと言えば・・・