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 加藤さん曰く「大江君は勿論小説家としては才能あるよ。でも政治的なことは脇に置いて、とにかく日本国内の知的流行に弱い。例えばクンデラとブルクハルトを同列に置いて語ったりする。これは欧州の基準からは考えられない。」

 つまりクンデラはそこそこ才能はある作家ではあるが、「かの」ブルクハルトととは同列に並べる、などは「あり得ない」ということ。

 ブルクハルトは歴史家ではあるが、著書「イタリア・ルネサンスの文化」は芸術作品でもあって、これを超えるような小説は早々出ない。
 ちなみにニーチェがトリノで発狂した際に、バーゼルに引き取って精神病院への入院手続きをしたのも理解者であったブルクハルトである。

 大江に戻ると、21世紀に入り、日本の極右化がさらに進むと、加藤さんがリーダーとなって「憲法9条の会」が結成、大江もそれに参加。このあたりから、大江は「戦後民主主義」を自分の原点として語るようになる。

 「サルトルを読む」=最後の小説にする、という構想は加藤さんの死後、練り上げられたようだ。この場合、おそらくサルトルの「政治的」とされる文章と「アンガジュマン」についての小説になったのだろう。

 実は私は最初の著書、『知識人と社会 J=P.サルトルにおける政治と実存』(2000)を大江に献呈していたのである。

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