しかし、五輪の「自由」がテーマの映像で取り上げらる著作、何故モリエール「豪勢な恋人たち」、マリヴォー「愛の勝利、、ミュッセ「戯れに恋はすまじ」、モーパッサン「ベラミ」、A.エルノー「シンプルな情熱」とすべて「愛」に収斂していくのだろうか?
たしかに「自由」なくして「愛」はない。
しかし「自由」は決して「性愛」に収斂するものでもない。
対して、「危機の20世紀」を生きた作家たちの著作は引用されることはない。
A.ブルトン、A.ジッド、A.マルローも、そしてA.カミュ、、J=P.サルトルも、だ。要するにファシズムと自由の関係を問い直す視点が感じられない(五輪だから当然か)。
女性ということでシモーヌ・ド・ボーヴォワールとルイズ・ミシェル(パリ・コミューンに参加。南太平洋に流刑)は、むしろ「回収」されている。
ボーボォワールとルイズ・ミシェルが生きていたら、マクロンに唾を吐きかけただろう。