フーコー、ドゥルーズ、デリダなど「後継者たち ディアドコイ」にも「敬して遠ざけられて」きた、「存在と無」、たしかに難解な書物ではあります。
通常サルトルは前期と後期に分けられますが、私見では中期に画期を置き、「存在と無」と「聖ジュネ」を中心に据えるのが適切であるが適切。
例えば前期の「想像力」、「自我の超越」、「想像力の問題」は現象学ではあっても存在論ではない。また「他者」の問題が扱われていないことが特徴です。
さて、一流の哲学研究者にも難解な『存在と無』、とりあえず最初に読むとすればどこか?
ジュネに「ここだけ読んでおけばいいよ」とアドバイスした箇所、それは第三部対他存在第三章「他者との具体的な諸関係」です。その後、余裕があれば、第4部「もつ」「為す」「ある」に進むとよいでしょう。
この箇所、常にサルトルを貶めるラカンも「ここだけは素晴らしい記述」などとセミネールで言っているが、多分他の箇所は理解できなかったのだろう。
というのも第三部第二章までは、科学論を含めた高度な哲学的訓練を前提にしてはじめて解読可能だからです。
日本では先の該当箇所だけ読んで「サルトルは近代エゴイズムに囚われている」という戯言が流行した時期があったが、これは「問題外」の「外」である。