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 昨日、4月13日はJ.ラカンの誕生日だったらしい。

 ラカンと言えば、私の10代後半から20代にかけてずいぶんと流行った精神分析家である。

 思想家と分類する向きもあるが、私はラカンにとりたてて独創的な「思想」があったとは思わない。

 ただ、中期位までの著作はサルトルの『存在と無』を読む手掛かりになる部分もあるので、かなり読んだ。

 この頃のラカンの日本語訳はすこぶる読みにくく、誤訳も多い。大学院修士課程の時、大学図書館から借りだした『エクリ』などは、以前借りた某ラカン学者が、「誤訳」の箇所を鉛筆で延々と書き込んでいた(あの頃は別にそれでも問題にならなかった)。

 仏語も易しいとは言えなかったが、正直ラカンの鏡像段階論などは「これ、自分の経験からもう言語化できてるよ」という感じだった。

 むしろフロイトは高校から大学にかけてかなり読み、その頃はそれこそ「反証不能」な荒唐無稽な仮説、と思うこと頻りだったが、人生を重ね、人との出会いを重ねると、「おや、これはフロイト的シエーマ!?」と感じることが多くなった。

 一つにはフロイトが当時のウィーンで大量の臨床を行ったこととも関係があるのだろう。
 
 勿論、それはラカンも同じである。しかしある時期から神秘的な閉じた臨床になっていたのではないか?

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