ふとした偶然から、モーパッサン「ベラミ(bel ami)」の映画化(仏)を見る。
私は実は仏語は独学であって、初等文法を学習した後は、プレイヤードのモーパッサン全集を仏語で全部読んで、中等仏語(?)の段階に進んだ。
「零度のエクルチュール」(バルト)のカミュはともかく、サルトルは仏語初修者には難しい。プルーストになると、これは仏語で全部読んだと断言できる仏文研究者は少ないだろう(専門家は除く)。
ところで、モーパッサン、日本では漠然とした「自然主義」で片づけられる傾向があるが、それなりに独自な作家である。
まず普仏戦争に従軍して、その悲惨さを身をもって知り、「反戦主義者」になったこと。
今一つは、当時の「ブルジョア社会」を女性、特に社会的地位が低い女性の視点から徹底的に侮蔑的に描いたこと。「脂肪の塊」などはその典型。
短編小説の完成者であり、サルトルは『文学とは何か』の中で、この小説形式の「構造分析」とフローベール由来の「反ブルジョア」の思想の関係を鮮やかに分析している。
ともあれ、「ベラミ」、J.ソレルから続く「若き狼 jeune loup」の頽落形態を活写した小説としても興味深い。トルストイはこの小説の最後のバロック的な空虚さを「あまりに退廃的」と批評したけれども。
「零度のエクルチュール」(誤)
「零度のエクリチュール」(正)
ところで、「ベラミ」の最後の場面を「バロック的空虚さ」と表現したけれども、「バロック的」とは何か?というのはなかなかに難しい問題である。
現在では例えば、フーコーの『言葉と物』の文体を「バロック的」やら「シャトーブリアンばりの美文」と呼んだりもする。
元来はブルクハルトのバーゼル大学の後任、美術史家のヴェルフリンがルネサンスの古典主義と対比させて提唱した概念。
ルネサンスの均衡・静謐・円に対して非対称性、ダイナミズム・楕円などを特徴とする。
ただし、このような美学的特徴だけではマニエリスムとの区別がつかない。実際ヴェルフリンは両者の区別をつけていない。
やはり、反宗教改革期のカトリックや近世国家をパトロンとした「見世物芸術的な派手さ」を加えることが重要だろう。
これは聖書のエピソードを信者に「読ませる」のではなく、教会の壁画で「見させる」というカトリックの要求とも合致した。
ハプスブルク家の外交官でもあったルーベンスはその典型。
ただし仏では大作家とされるN.プーサンはバロック的というよりも古典主義の典型とされる。
これは演劇の分野でのラシーヌとコルネイユの違いと対応しているかもしれない。