憲法学の宮沢俊義(1899生)と民法の我妻栄(1897生)は、戦中の東大法学部教官の中では国際法の横田喜三郎(1896生)と共にに、田中耕太郎(商法1890生)のグループに属し、基本的に31年以降の軍部支配には批判的だった。
特に宮沢俊義は、美濃部達吉の弟子にして憲法学主任教授となったので、天皇機関説事件によって文部大臣に名指しで批判されるに至った。
丸山眞男が旧制一高から法学部に進学した際が、宮沢の最初の講義の年。前期が一般国家学、後期は帝国憲法の逐条解説。この年は機関説事件前年であったので、宮沢は帝国憲法第3条「天皇は神聖にして犯すべからず」を「単に天皇の刑事無答責を定めたものに過ぎない」と自説を展開。
ところが、翌年以降は「第1条から第4条は省略。その意味は学生諸君に考えていただきたい」とした。青島にて1917生の日高六郎が大学に進学した際、この宮沢の言葉を聞いて感動したという。日高は兄がマルクス主義を知悉していたので、宮沢の意図を明確に汲み取ったのである。
そうした背景がない三島由紀夫(1925生)は宮沢の講義を聞き、「不敬」だと罵った。
ところで、三島の「仮面の告白」、私から見れば「元祖中二病」のとるに足りない愚作。
海外で三島評価が高いのはただのオリエンタリズムである。