とは言え、プラトンにしても、元来はすべて対話篇といわれているように、すべて弟子達が耳で「記憶」していたものであるから、人の「記憶力」というのは大したものである。
また古典ギリシア語は、造語や言葉遊びなどにとりわけ適した言語であり、ハイデガーがやたらと有難がったのも一理ある。
ただし、「古典ギリシア語とドイツ語だけが哲学するに値する」という主張は凡庸なナショナリストであるハイデガーの「妄想」に過ぎない。
またプラトンの哲学のモデルが「数学」であり、アリストテレスのそれが「生物学」であるとして、後者の「生物」の定義が「自己の複製」という点で分子生物学に近い、ことなどは学生にも理解し易い。
次は、やはり岩波文庫で翻訳があるルクレティウスやキケロ、セネカなどのストア派である。これは倫理学的な短いものが多いので、少し解説をすれば読める。ただし、ここで前期、中期、後期ストアの区別とネオ・プラトニズムの解説をする。
実は高校倫理ではストア派の名前は覚えるが、ネオ・プラトニズムは教えない。しかし日本には田中美知太郎訳のプロティノス「全集」がある。こんな東洋の国は珍しいのでは?
また、政治思想上のキケロの位置、国際私法としてのローマ法などの話をするので、どうしても「古代」が長くなるのである。