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 日本語圏の政治学者、行政学者、社会学者には「新自由主義」という概念は「使うべきではない」という珍妙な主張をする人がいる。

 この人達は、英語圏や仏語圏の研究を全く読んでないか、あるいは日本では「知らない」振りを通せると思っているのだろう。

 何やらポパーの「反証可能性」を持ち出して、「検証に耐えない」などと「知ったかぶり」をする人もいる。

 しかし、ポパーの理論は物理学をモデルとしたものであって、「他の条件を同一にする」、「実験の反復可能性」などの条件は、歴史や社会には元来、適用不可能である。

 実際、「歴史主義の貧困」を書いたポパー自身の書物「開かれた社会とその敵」などは、自分の理論の基準など無視した全くイデオロギー的なものでしかない。

 ポパーを口にする人は、それでいて「ガバナンス」やら「グローバリズム」やら「リフレの有効性」やらといったポパー基準では「非科学的」な主張を振り回すのだから、本当はポパーなどどうでもいいのだ。

 要するに「新自由主義グローバリズム」の解読格子では米国の覇権、パワーエリートや超富裕層の支配といった軸を可視化せざるを得ない。

 これは現在の日本の大学業界では「左派的」と見られる。何のことはない、「左派的」と見られ、周縁化されるのを恐れているだけなのである。

政治的な課題を忌避して自然科学の言説で虎の威を借る、というのは「社会科学」という呼び方に私が感じる欺瞞です。

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