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「フォークロアからサブカルチャーへ」中・4

 また上田は関東大震災の際の朝鮮人虐殺を批判した折口も「朝鮮」という他者と、「ついに出会うことはなく」、自身の歴史学の構築の際、このことを強く意識した、と述べています。

 上田正昭と比較すると、ほぼ同世代の東大の井上光貞は、いわゆる「任那日本府」・「帰化人」の概念設定・記述など、そして根本的には「朝鮮」という他者との出会い方において、大きく後れをとっていた、と現在からは評価できるでしょう。これは井上光貞が維新の元勲井上馨(日清戦争中の朝鮮公使)、桂太郎の孫であったということと多少は関係するかもしれません。

 ただし、井上光貞は、「征服王朝」論を「否定する」だけの根拠はなく、むしろ北九州からの応神による畿内征服をヤマト(倭)王朝のはじまり、と解釈すれば、歴史学の「実証」成果と矛盾しないとしていました。

 この点、以前批判した東大の大津透などは、指導教官井上光貞を持ち上げながら、上田や直木孝次郎の王朝交代論(河内王朝論)をただ、「理解に苦しむ」や「違和感を感じる」と片づけるだけであって、挙句の果てが「歴史学」は「天皇の即位儀礼」への「国民」の関心に応える「責務」がある、ですから「語るに落ちた」とはこのことです。

 

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