考えてみれば、ジブリの「ハウルの動く城」も舞台はハプスブルク統治下の山岳自体であったような気がする。
フランドルは英仏百年戦争の終り頃には、ホンジンガの名著『中世の秋』で知られるブルゴーニュ公国の統治下にあった。
ジャンヌ・ダルクを見殺しにしたシャルル7世の息子ルイ11世の時に、ブルゴーニュ公シャルル「突進公」がスイス・パイク兵(長槍密集歩兵)に敗死してから、ブルゴーニュの大部分はフランス王国に吸収。
しかし「突進公」の娘マリーは婚約者のハプスブルクのマクシミリアン(まだ神聖ローマ皇帝ではない)に助けを求め、僅かな時間差でマクシミアリンはフランドルに到着。
マクシミリンはブルゴーニュ公としてギネガテの戦いで、やはり歩兵密集集団でフランス重騎兵突撃を大破。
以後フランドル支配を不動のものとした(尚。マクシミリアンから神聖ローマ皇帝はハプスブルクの事実上世襲となる)。
このマクシミリンとマリーの子フィリップと「狂女」とされるスペイン王女ファナの間の子が、かの神聖ローマ皇帝にしてスペイン国王、カール5世。
カール5世はフランドルで生まれ育ち、母語はフランス語。スペイン語はスペイン国王になってから習得。
この辺りは国民史として出発した日本の西洋史学は完全に死角になっている。
J.ホイジンガについて
J.ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』などでも知られる20世紀を代表する文化史家の一人。
オランダ人であり、日本とも関りが深いライデン大学学長となった。WWII中にはオランダを占領したナチスによって強制収容所に監禁。1945年オランダ解放直前に死去。
私は大学生の時、幸運にもライデン大学学生との3週間程の交流プログラムに参加する機会があり、オランダに滞在した。その際は、あちこち案内してもらい、私個人にとっては「よい想い出」しかない。
ただオランダはWWII中の日本の「性奴隷制」を含む戦争犯罪にはきわめて厳しい態度で臨む国でもある(インドネシア解放の名の下で「慰安婦」にされたオランダ人女性もかなりいる)。
昭和天皇は1971年にオランダ訪問した際、搭乗する車に魔法瓶をぶつけられ、窓ガラスにヒビが入った、という事件もある。
ホイジンガに戻ると、オランダ人でありながら、ブルゴーニュ公国の文化史を俯瞰的に描くことで、「国民文化」の枠を超えた「欧州文化」への視点を提出しようとしたと言える。
これはナチスの逆鱗に触れるのは当然である。
しかし、ホイジンガの視点、どうも日本の西洋史には引き継がれていない。