「比較言語学」と人種主義

 比較言語学とは、サンスクリットと欧州語の「共通祖語」を前提に、諸言語を「生物」の系統樹のように描く学問。

 ただし、同時に印欧語のみを「正統」・「文明」の言語とし、それ以外の言語、例えば「セム語」系、ハム語系、あるいは東洋諸語は低い位置に置かれた。

 この「比較言語学」が急激に発達したのが19世紀。フーコーは『言葉と物』で生物学と経済学と相互転移を行いながら、このジャンルが如何に構成されたかを考古学的に分析。であるから、サブタイトはの「人文科学の考古学」となる。

 この比較言語学の成立によって、とりわけヘブライ語・アラビア語のようなセム語、そしてハム語を話していたとされる古代エジプトの地位が大きく下げられた。

 欧州における「反ユダヤ主義」が「反セミティスム」と呼ばれるのは偶然ではない。Foucaultは『講義』では比較言語学と人種主義の結びつきをより強く示唆している。

 逆にハイデガーはドイツ語と古典ギリシア語だけが「哲学」に相応しい言語などという「妄想」の世界に入っていく。

 多言語話者は東アジアにも多くいるが、スパルタクス君には「目に入らない」ようだ。要するに欧語(独仏)を学習したものだけが「特別な」視点に立つ、という典型的な「ヨーロッパ中心主義」。

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 朝鮮語と日本語は仏語と独語よりはるかに遠い。中国語は勿論だ。
 
 そして留学ではなく、幼年よりこれらの言語のバイリンガル、トリリンガルの人は日本にもたくさんいる。

 何故、その人たちではなく、仏語を習得した自分だけが「二つの言語を往復する」特別な知性を持ち合わせると主張できるのか?(そう言えば、これ松浦寿輝が君と全く同じことを言っていた)。

 要するにある時期までの「西欧」しか参照枠がなく、「知的なアジア」を完全に欠落させた「エピステーメー」の内部にいるからだろう。であるから「西洋文明」に「嫉妬している」などという突拍子もない憤怒の言葉が出てくる。

 それから主語が云々の話だけど、源氏物語で主語が出ないのは「読者」にとって、発話の主体が「誰」かが自明であったため。それだけ狭い宮廷社会のなかでこそ成立した。

 逆に欧州語でもラテン語・イタリア語、スペイン語は動詞の活用で主語がわかる場合、主語は消えるでしょ。

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