フォードがアイリッシュ、キャプラはシチリア系イタリア人。W.ワイラーはアルザスのユダヤ人でした。
ワイラーは1942年にドイツの空爆に抵抗する英国を描いた『ミニヴァ―夫人』でアカデミー賞監督賞・作品賞を受賞。その後、欧州大陸の航空戦を撮影。その際、聴覚障害となり、片耳は完全に聞こえなくなります。またWWIIに参加した黒人兵のドキュメンタリーも撮影します。
しかし、ミュルーズのワイラーの親族は全員ナチスによって殺害。
ワイラーの1946年『我らが生涯の最良の年』では復員兵たちの困難な「社会復帰」を描いています。片腕を失くしたもの、出征中に妻に出奔された者、PTSDに苦しむ者、職が見つからない者などなど。
ワイラーは戦時撮影に携わった監督の中で最も「赤狩り」に持続的に抵抗します。
いわゆる「ハリウッド・テン」の援護グループの世話人となり、『ローマの休日』ではD.トランボ、『友情ある説得』ではM.ウィルソン(「陽の当たる場所」、「戦場にかける橋」、「猿の惑星」)と「ブラックリスト」の脚本家を採用。前者はアカデミー賞。後者はカンヌ映画祭パルムドールを獲得。
しかし、『黄昏』は「レッド・パージ」の暗い時期を反映しており、商業的には失敗。しかし芸術的にはハリウッドの「文法」を逸脱した名画。