「長篠の戦い」で鉄砲3連射撃はなかった!?
ある世代まで(あるいは今でも)、「長篠の戦」では小田・徳川連合軍が鉄砲3千丁を揃え、3列に分けて切れ目なく一斉射撃、武田の騎馬軍を壊滅させた、と高校まで習った、のではないでしょうか?
しかし、日本史でも現在では、この説は否定されているようです。
有名な「長篠合戦屏風」も、17世紀後半に書かれたもの、とされています。
ただし、大量の火縄銃が長篠で使用されたことは間違いありません。(ただし一斉射撃であったかどうかはわからない)。
原資料の「信長公記」では、火縄銃が1-3千丁持ち込まれた、とあります。
また、16世紀後半の日本には世界中の火縄銃の3-4分の1が存在した、とも言われます。
では、何故後に17世紀後半の屏風では一斉射撃として描かれ、またさらに後「3連射撃」と語られるようになったのでしょうか?
ここで、ようやく近世ネーデルランドのマウリッツ革命に戻ることができます、やれやれ。
火縄銃(欧州ではマスケット銃)を一斉射撃するのは、簡単にできることではありません。
確かに、幼年期からの長い訓練を必要とする弓隊(典型がウェルーズ長弓隊)と異なり、マスケット銃は長くとも数ヶ月の訓練で「撃てる」ようにはなります。
小田・徳川(誤)
織田・徳川(正)