日本のアジア主義と朝鮮侵略
1910年までの近代日朝関係史、日本での歴史教育だと断片的で非常にわかりにくい。
拠って、日本の朝鮮侵略・支配を1910から、と考える人も多い。
事実は、1876年の日朝修好条規がすでに不平等条約で、その後の朝鮮侵略の足掛かりとなった。
今一つ、重要なのは玄洋社を中心としたアジア主義団体がいわば右派民兵=大陸浪人として朝鮮侵略の先兵となったこと。
「浪人」であるので、非合法な行動を(勿論政府と連携しながら)悪い意味で機動的に展開した。
玄洋社は、旧福岡藩士が中心。福岡藩は幕末維新の際、薩長、そして土肥にさえ、出遅れる形となって、明治政府の公式エリートに入り込むことができなかった。
内田良平、頭山満、日露戦争でポーランド、フィンランドの独立運動に資金供与をする責任者となった明石元二郎などはすべて福岡藩士。
ただ明石は福岡藩では家老クラスの家柄であったこともあり、陸軍士官学校から公式の軍人へと進む。後、寺内総督(長州)下で憲兵司令官。朝鮮併合を担当。
日本のアジア主義者たちは1882年の壬午軍乱・84年の甲申事変から半島で暗躍している。
そして1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)では、混乱を助長するために再び半島に流れ込む。