R.ロッセリーニ「1951」(下)
しかし、ロッセリーニは非「共産主義」左派であったため、冷戦の激化とともに、難しい立場に立たされていきます。
現在の研究ではアメリカはイタリアの共産党政権にわたすつもりはなく、万一選挙で保守連合が過半数をとれなかった場合、イギリスとともにイタリアを軍事占領する予定だった、ことが明らかにされています。
実際、ギリシアでは社会内部の力関係では優勢だった左派が英軍の介入で排除され、ソ連もそれを見捨てました(というか、チャーチルとスターリンはそのことについて合意していた)。
この映画「1951」では
米国人で、イタリアの資本家の妻となったI.バーグマンは、子供の死とともに「社会問題」に目覚め、PCI文化部長の親族としばらく共に行動するが、結局袂をわかち、半ば自分の意志ともとれる流れで精神病院に監禁される、場面で映画は終わります。
日本では1951年、と言えば堀田善衛の「広場の孤独」が発表された年です。
ユーラシアの東端と西端で「国際冷戦レジーム」への抵抗としての「中立主義」が成立し、ある期間までは有意味な参照関係が成立した(欧州でその立場をもっとも代表したのはサルトルと『現代』)のは、こうした世界空間の再編、という背景がありました。