都会から移って僻地で暮らしてみると人が少ない分だけ人間社会の構成要素とか力学とかが見えやすくなるんだけど、ずっと僻地で生きてきた人たちは比較対象するものがないからなかなかそのような見方はしないし出来ないという事実がある。世の中の不如意についてもなんだかおかしいな、変だなという感覚はあるにしてもそれをはっきりと言語化する術を知らないから結局思いがまるで澱のように溜まり、やがて石のように固定化されて恨みつらみの根っこになってしまうということが起きる。
どうして街や村から人が、特に若い人がいなくなったと思うかと年寄りに聞いてみるとここらには仕事がないからだと答える。たしかにそれが半分の理由だけど、同じぐらい重要なもう半分の要素があって、それは年長者が自分の考えを年少者に理屈抜きで押しつけることを当たり前とする習慣が物凄く強く残っていることだ、それを子どもの頃から目の当たりにしてくると移動手段を手に入れた瞬間にここから一刻も早く逃げ出したくなるのだよ、と。そのことを言うとそこでほとんどの年寄りの思考は停止する。とにかく周りに合わせることを第一に生きてきた人たちにすればそれこそ意味不明なことだから当然そうなるが、農作業を中心とした協働社会の仕事があってこその人間関係だったことを振り返ってみるという気づきもなかなか起こらないので、単に若い奴らが自分たちよりもワガママなだけだと断定してしまう。このように、家父長制といっても非言語的なある種の“呪い”で保たれているだけの、非常に脆いシステムだということが見えてくる。
これに関連して、民俗社会学とでもいうような学問自体の存在をググってみたけどパッとみたところは見当たらない。民俗学と文化人類学のクロスオーバー的な視点から僻地の文化習俗をみてそれをこの国の文化や思想性を掘り下げることに繋げている学者や著作があったら見てみたい気はする。たとえば福島県民はなぜ原発誘致を受け入れたのかとか、これほど国家からコケにされているのになぜいまだに現代版の一揆を起こさないのかとか、そういうメンタリティの根源を探るヒントが見つかる気がするので。
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どうして街や村から人が、特に若い人がいなくなったと思うかと年寄りに聞いてみるとここらには仕事がないからだと答える。たしかにそれが半分の理由だけど、同じぐらい重要なもう半分の要素があって、それは年長者が自分の考えを年少者に理屈抜きで押しつけることを当たり前とする習慣が物凄く強く残っていることだ、それを子どもの頃から目の当たりにしてくると移動手段を手に入れた瞬間にここから一刻も早く逃げ出したくなるのだよ、と。そのことを言うとそこでほとんどの年寄りの思考は停止する。とにかく周りに合わせることを第一に生きてきた人たちにすればそれこそ意味不明なことだから当然そうなるが、農作業を中心とした協働社会の仕事があってこその人間関係だったことを振り返ってみるという気づきもなかなか起こらないので、単に若い奴らが自分たちよりもワガママなだけだと断定してしまう。このように、家父長制といっても非言語的なある種の“呪い”で保たれているだけの、非常に脆いシステムだということが見えてくる。