個人的には、とりわけ石原海氏の《重力の光》がクリティカル。北九州市で犯罪者や家出した人々を更生する活動を長年続けている「抱撲」なるNPO法人の世話になった人々が出演して、新約聖書に書かれたイエスの受難〜磔刑〜復活のくだりを再演するという映像作品ですが、合間合間にその抱撲を主宰している聖職者──2015年に安保法案に反対する学生運動を率いていたSEALDsのリーダーだった奥田愛基氏の父親でもある──がイエスについて語る/語り直すシークエンスが差し挟まれ、そこではキリスト教における〈原罪〉というモーメントが強調されていました。そこだけ取り上げると体のいいキリスト教紹介ビデオといった趣ではあるのですが、映像の中でイエス役を演じているおじいちゃんが薬物中毒で傷害事件を起こしていたこと、さらには同展自体が既述したようにポストコロニアリズムの現在に焦点を寄せた作品が多かったことと合わせると、この作品における〈原罪〉は別種の意味を帯びることになる。
アラン・バディウは『聖パウロ』において、〈原罪〉概念を罪一般と全く異なるものとして再定位しています。パウロ/バディウにおいて〈原罪〉とは、様々な属性を書き込まれた有限な存在としての人間を、それらから解放するものとしてあり、従って〈原罪〉において人は平等である、とされるわけで。
《重力の光》に戻りますと、この作品が遂行的に見せているのは、かかる〈原罪〉がキリスト教の少なくとも最初期にはありえた(かもしれない)ことであり、「ホーム」とは〈原罪〉によって、あらゆる属性に基づいた共同性から解放された存在たちの共同体であるということであると言えるでしょう。ところでこのような(未だ来らざる)共同体は、昨今の〈多様性〉とは真逆のものであることに注意する必要があります──〈多様性〉とは、有限な存在としての人間をそれとして措定することであり、従属・隷属が支配することになるからです。