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身も蓋もないが、芸術に対する評価軸は二つあって、一つは取引金額、もう一つは誰が評価をしているか、ということなので、評価は定義ではなく、評価の中身の妥当性は、時代に即し利益を上げているか、という点を無視するのはちょっと違う、という気持ち
(そして評価する人間が誰か、によって評価の妥当性が変わるので、芸術作品の評価には権力勾配がある)

私はアルフォンス・ミュシャをこどもの頃から好きで、美術館やギャラリーに何度も見に行ったし、ギャラリーのカタログで現実にリトグラフやポスターを購入可能か調べたりしたけれど、『スラブ叙事詩』はあまりにもナショナリズム、と感じて見ているのが苦しいと思ったし同時にどこまでもどこまでも女性を装飾のように描く(概念や象徴としての女性像を沢山制作していてそういうタイトルも凄く多いし)と感じて、自分の嗜好やモノの見方は変わる、をまざまざと実感したので今後見に行くかどうかはわからない
(同時にあの作風の情緒性やテーマが本邦に物凄く浸透していると感じたことに、自分だけがはじかれるような気持がある)

いつも思うけれど、何かを好きであること、何かに対する他者の評価に納得がいかないこと、自分の期待する評価が他者からなされないことに傷つくこと、は分けて考える方が良いし、自分の気持ちは大切に抱きしめる

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