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X からたびたびコミュニティノートへの協力の依頼が来る。いつの間にか登録してあったらしい。登録を解除したいが、方法がわからない…。よく読んだことはないが、機能してるのかね?

この件、あまりに読みにくいということで、4ページに割り付けし直したゲラが送られてきた。これで読みやすくなった。ありがたいこと。次回からは、事前に原稿の量についてきちんと打ち合わせします。いつも言葉たらずで、家族にも指摘されるのですが、なかなか直りません。

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校正をしていると、読点を足したくなるのですが、よほど読みにくいと思うときでなければやりません。そこまでやると越権という気もするので。

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読点の打ち方は人それぞれで、特に決まりみたいなものはないのでしょうがが、私は多めに打つ方。2行くらい読点なしで文章を書く人も珍しくありませんが、読む方はずっと休みなく文字を追わされているような感覚になって、ひどく疲れるのです。

でもそうは思わないから、読点を打たないのでしょうね。読むときには自分で適当に区切りながら読むということで。これは私の癖なのかもしれませんが、どうしてもそのように読めないのです。

これも愚痴か。愚痴を書いてもいいところと思えば気楽。

結社誌の校正中。私の担当のページ、本来は2ページなのだが、今回は3ページでお願いしますと言って送ったのに、ぎちぎちに2ページに詰め込んである。

うちの結社は経営が厳しくて、主宰が自費で赤字を補填しているので、ページ数の節減は仕方がないこと。でもこれではたぶん、かなりの人が読むのを諦めるような気がするなあ。

事前に相談せずに長くした私がよくなかったので、単なる愚痴ですが。

鈴木牛後 さんがブースト

このイスラエル/パレスチナ問題の資料4枚にキチキチに情報詰まっててよかった。シオニズム運動の広がりを起点とした歴史の整理。選挙で勝ったハマスへの国際援助が停止され、封鎖されたガザから物資を奪い、さらに度重なる攻撃によって生活基盤ごと破壊してきた経緯が解説されてる。年表もありがたい
twitter.com/p_sabbar/status/17

俳句とルビ 

先日、投句を夏雲システムで行った句会で、「これはルビを振らなくてもみんな読めるんじゃないですか?」と言われたのだが、「そうかもしれないけど、振ってもいいでしょ?」と思う。読むときにじゃまにはならないと思うんだけど、どうなんだろう? 短時間で選句しないとならないから、多めに振っておいた方がいいと私は思う。

句集も、できるだけルビがあった方がいいのではないかと最近は思っている。辞書をひけばいいと言う人もいるが、辞書の引き方にも修練が必要で、誰にでもそのスキルがあるわけではないから。私の句集は俳句をしない農家の人もたくさん買ってくれたので、おそらく読むのをあきらめた人もいるんじゃないかな。

俳人はみんなインテリだから、読めるのが当然と思っているかもしれないが、それはちょっと傲慢かも。

埼玉県立歴史民俗博物館に行ってきた。面白いものが多くて、一日では足りないくらい。この写真は日本一の板碑のレプリカ。板碑って、せいぜい1メートルくらいだと思っていたが、こんなに大きなものがあるとは。この石には、古墳から掘り出した石棺の蓋が使われている可能性があるとか。壮大な話だ。

先日NHKBSで放送した「日本人の起源」(?)の番組を録画で見た。日本人=日本列島のマジョリティと決めてかかっているタイトルだけど、外国出身者やその子や孫も日本人だし、アイヌの人もいるので、時代に合わないのでは。せめて斉藤成也さんが使っているように、日本列島人とすべきなんじゃないかな。

川原真理子さんの句集「ひかり秘めたる」より3句。書けば読んでくれる人もいるようなので、少しずつ書こうかな、と思っている。miyukibare.exblog.jp/242010016

街外れにいくと烏瓜がよく目に付く。北海道にはなかったので、これが烏瓜かとちょっと感動した。歳時記に載っている植物の、おそらく半分くらいは北海道(特に北部)にはなかったので、いろいろと目新しい(梅も金木犀も曼殊沙華もなかった)。

俳句を読む上で、植物の季語はわりと適当につけられている場合も多いのだろうが、それでもその植物を知っているのと知らないのとでは、読みの妥当性が変わってくると思う。俳句を作るだけなら、北海道にいた方がよかったかもしれないが、読んで楽しむことを考えれば、こちらへ来てよかった。

今日は引っ越し前の俳句仲間とのオンライン句会だった。他のメンバー(5人)は会議室で横に並んで画面に映るようにして、私ひとりがオンラインという形式でやっている。前回は向こうはパソコンだけだったので、声が遠くて途切れてしまったりしていたが、今回はマイクを買ったということで、とてもスムーズだった。機材を整えるということは、ストレスなく話をする上でとても大事。

「雪華」のHPを更新しました。今月の巻頭句は《黒葡萄昼間を仮の星として 鈴木総史》橋本主宰は選評で「わかりやすい句ばかり選句するのは素人俳人でもできる。書きづらいからこそ句評・鑑賞を書きたくなる。なぜなら私は貧困ではあるが職業俳人だから」と。

散文置き場には、越智友亮「ふつうの未来」評(五十嵐秀彦)、岸本尚毅「雲は友」評(鈴木牛後)を掲載しています。
yukihana-haiku.com

KADOKAWAが刊行予定だった例の本が中止になってよかった。関連会社から句集を出している身なのでなおさら。でもこの件でかなり信用を落としてしまったので(オリンピックの件もあったし)、角川から句集や歌集を出そうという人は減るのではないかな。角川学芸出版がなくなってしまうのは、それはそれでよくないことなのだが。

このところ、ときどきブログを更新して、俳句の鑑賞を書いている。俳句の鑑賞を書くことはそれほど難しくはないが(出来不出来は別として)、批評を書くのは難しい。

鑑賞はその句が良いと思ったというのが前提だが、批評はそうではないと思うから。何かを指摘するためには、それ相応のものがこちらになければならず、そんなものがあるのかと言われれば立ち往生してしまう。そんなこと言っても仕方がないので、できることから。

今日は、桶川航空学校平和祈念館に行ってきた。特攻で死んだ人の遺書が展示されていて、読むとやるせない思いしかしない。「皇国のために立派に死んできます」みたいなことが書いてあるけど、じっさいには全くの無駄死にだったわけだから。

無駄死にというのが、あまりにもかわいそうということから、特攻を美化して、それが歴史修正主義のようなものにつながっていったりするのだろう。そこまではわからないでもない。

でも今は、それを利用して自分に都合のいい世の中にしようとする人が多いから、やっぱり愛国心などというものは警戒しすぎるくらいでちょうどいいと思う。

引っ越しをした理由について、経営が破綻してやむなく…と思われているフシがあるみたい(そのような内容のメールなどをもらったことがある)。

じっさい、現在はたいへんな不況で、継続していてもたぶん利益は出なかったと思うが、廃業を決めたときはまだ少しは景気がよくて、もったいないねえ、などと言われたくらい。

経営不振での廃業だったら、境涯俳句みたいなのを作るにはよかったのかもしれないが、いずれにしてもそのような俳句は作りたくない。

私の俳句は私小説的に受け取られているのかもしれないが、そういうつもりではないんだけどねえ。

初めての吟行句会、緊張感があって楽しかった。対象そのものを楽しめないという憾みはあるものの、それもよし、これもよし、という感じかな。俳句を得るチャンネルはいろいろと持っていていい。これも今までの感覚とはちがうところかも。

今度の日曜日に、誘われて吟行句会に行くことになった。
割と長く俳句をやっているが、吟行句会は初体験。作れそうな気がまったくしない。

今まで吟行をしたことがないわけではないが、いつも自分ひとりなので、作っても作らなくてもよかった。何がなんでも作らなければならないとなると、どうなんだろう?それは行ってのお楽しみ、かな。

自転車にも慣れてきて、少しずつ遠いところまで行っている。自転車に乗るようになって思うのは、自動車の威圧感。運転している人には、そんなつもりはないのだろうが、圧倒的な力の差に飲み込まれそうになる。

人と人との関係にもそういうことがあるのだろうと思う。立場が上の人はふつうだと思っていても、弱いものは実は怯えていることが。

自転車も歩行者に比べたら暴力的な部分があるので、気をつけて乗ります。

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