俳句とナショナリズムの話。改元のときに現代俳句協会で俳句を募集していたのには驚いた。何のためらいもない「奉祝」。協会の中から反対意見は出なかったのかなあ。あのとき協会にメールを送ったんだけど、ご意見は承りました、みたいな感じだったような…。
住みにくくなるような話ばっかり。外国人だけの問題じゃなくて。
やばいなこれ
税や保険料を納めない永住者、許可の取り消しも 政府が法改正を検討:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS2544Z5S21UTIL01R.html
「雪華」のHPを更新しました。今月の巻頭句は《雪晴風(ゆきはらし)天よつかまるものがない 村一草》雪晴風は吹雪のあとの晴天に吹く強風。吹雪を耐えてきた身には、待っていた晴天の澄明も寄る辺なさを感じさせるものなのか。
散文置き場には、小田島渚「羽化の街」評(五十嵐秀彦)、恩田侑布子「はだかむし」評(鈴木牛後)を掲載しています。
おつかれさまでした。口語俳句は奥の深さを改めて感じました。
私も支援しました。
送れる場所増えてるよ〜〜
そして20日経っても一向に足りていないようです…………………………
#能登の障害者に届け
https://todoke.jp/
俳句の当事者性について
俳句の当事者性は難しい問題といつも思う。震災詠はもちろんだが、都会の人が農業の現場を見て詠んだ俳句などにも実は少し抵抗がある。自分が農家だったから、領域を侵されたように感じるからだろうが、無意識の上から目線のようなものを感じてしまう。
もちろんそんなつもりがないのは承知しているが、たとえば沢木欣一の塩田の句などは、都会のインテリの沢木が厳しい労働現場を見て詠むという行為自体が、ある種の勾配をもっているというのは否めないと思う。その点で、佐藤鬼房のような、自分が労働者である立場とは違う。
今まで自分が農家であるという立場をとても重要視してきたが、農家でなくなって、どうしたらいいか迷っている部分は正直ある。このあたりは、震災詠とはあまり関係ない話で、震災詠のことは別に考えていかなければならないが。
鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)。俳句のことなど。ブログ「本日も深雪晴」https://miyukibare.exblog.jp/