ここの投稿は心の排泄とは常日頃言っている私でも、一応の配慮はあるのだけれど。
リアルではここでの投稿より1/100くらい控えめに日本の皆さんのバイアスにツッコミ入れてる私なんですが、先日、普段は理性的な人生の先輩が海外の右傾化を嘆いてたりして。
軽ーくツッコんでたんだけど”いや俺は正しい”みたいになってきたので、
”私の祖父は”日本人”というラベルを貼られ、土地を奪われ、空に食えなくなり日本の鉄道工事に動員され、そこで命を落とした。
以来我々は100年ここにいる。
しかし日本という国は我々をどう扱ったか。
都合が悪くなれば日本籍を剥奪し、無国籍状態に追いやった。
私からすれば日本という国こそ極右だ。
それも今に始まったものでもない。
ファシズム装置としての国家神道も天皇制も清算できずズルズル維持している極右の国である。
しかしあなたはこの国の中から外の国を見て右傾化だと嘆く。
これはあなただけでなく、日本に生まれ育った人々が受けた教育によるもので、あなた個人を批判するつもりはない。
これは私個人の嘆きである。
また、私がこのように嘆いたところで何も変わらない”
と言ったところ、その人物も立派なもので
”なるほど、私がインドのモディがなどと思っていたのは鏡みたいなものかもしれない”
と返してくれた。
日本人は、とか限定して言うつもりはなく、人間であれば、空気を吸って吐くとか、食べ物を摂取して出すとかと同じように、我々というものは情報に囲まれていて、それを取捨選択する、ということを余儀なくされているのだけれど。
その取捨選択プロセスの際に、批判的なもの、自分という存在を揺るがす情報というのを、脅威に感じたりするんだろうなと。
なんで脅威かというと情報処理にかかるプロセスが複雑になる→時間を消費する→避けたい、というほどの機序なのかしらねと。
ザックリいうと、面倒くさい→イヤだ、と。