打越は、震災作文で小学生が朝鮮人の連行を目撃した「横浜植木」と電柱に縛り付けられた血だらけの朝鮮人に人々が竹槍で突いているのを目撃した「山元町の交番」の中間くらいの場所。
「横浜植木」方面に更に進めば”港の見える丘公園”が、「山元町の交番」方面には「根岸競馬場」(30名の朝鮮人の死体が発見される)が、さらに進んで丘(山)を下れば「中村橋」あります。
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「李誠七は、…1918(大正7)年頃に日本へ渡り、中区打越の在日大韓基督教会横浜教会の前身となる伝道所を拠点とした。
そして1923(大正12)年9月1日、関東大震災に遭遇する。
震災の直後、各地で朝鮮人虐殺が勃発していることを知った李氏は、近所の百姓の家に助けを求め、押入れの中で一週間過ごしたという。
やがて外に出てみると、虐殺の犠牲となった朝鮮人の遺体がそこかしこに放置されていた。その様子に衝撃を受けた李氏は、農家で大八車を借り受け、遺体を集めてまわった」
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