グレーバーは『官僚制のユートピア』で「ゲーム」と「プレイ」の違いについてつぎのように書いているゾイ
ゲームは「純粋に規則に支配された行為」であり現実とは違い「あいまいさのすべて一掃された状況」かつ「規則にしたがうことで勝利することすらできる」。だからこそわたしたちは「快楽の源泉」としてゲームに「自発的に従属する」(わたしたちが官僚制の形成するゲームを愛しているのはそのため)。
一方でプレイは「規則の存在を含意しているわけではない。プレイは純粋に即興的なものでとありうる」(だから官僚制の魅力の背後にはプレイへの恐怖がある)。しかし「ひたすらランダムであるようなプレイはすぐに退屈になる」ため「プレイはすくなくとも暗黙の規則を不可避に生み出す」。
グレーバーは『官僚制のユートピア』で「ゲーム」と「プレイ」の違いについてつぎのように書いているゾイ
急に中沢新一みたいな話だがバグがおもしろいのはバグと戯れることがゲームの規則からはみ出すことだからなんだろう(ゲーム/プレイという枠組みは、インプロヴィゼーション/フリーインプロヴィゼーションのちがいの話にも転用可能だとおもう)