クリエイターものの漫画への嫌悪が掴めてきたが、マンガの自伝ものやクリエイター神話は『漫画家残酷物語』に始まり、『まんが道』で広く浸透するが、『まんが道』は手塚を讃えることとコンビの友情ものにすること、不器用なビルドゥングスロマンであることでバランスが比較的マシになっている。だがまんが道をなぞろうとすると、「大人の自分」を終着点とする亜インテリの自己追認に終わり、青年誌漫画のプロパガンダめいた要素が露呈することになる。青年誌にはイデオロギー批判の風土が欠落している欠点も大きい。
だが、このクリエイター表象があくまで擬似性や遊戯として捉えられているのであれば、全く状況が変わる。具体的には、「マイクラみたいななろう漫画」と同列に扱われるなら怒りが湧かなくなる。異世界のんびり農家も、こんな農業ねえよ、都合よすぎるわーとみんな知りつつ半笑いで、ゲーム感触の楽しさを認めて許されているわけで、そこで描かれているのは農業そのものではない二次的な行為性だ。
そうはなっておらず、クリエイターものは真顔で受容されているのが耐え難い。売れない漫画家が「藤本タツキ…やはり天才…」とか言ってるから、ルックバック受容は一層きつい。ものづくりイメージにはイデオロギー付着しやすい点でも重なる。