以前、「ラカンもバルトルシャイティスもアートというより奇術や見世物への関心で視覚論やってるよな」としばしば人と話してたけど、この問いはもっと深められるだろうなあ。映画以降の娯楽作品においては、奇術モチーフこそがメディウムスペシフィシティに接近しやすいのだと捉え直すことができる。

黒沢清のCUREはよく「見ることの主題がこんなに有機的に結びつくなんて」と評される。人物による細部注視がそのまま催眠や社会規範の解除に結びつく仕掛けになっていることへの指摘なのだが、これは作品内で「見ること」をめぐるメディウムスペシフィシティの圏域が開示されると言い換えられる。

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黒沢清や高橋洋、Jホラー作品や特撮映画などではモンスターの系譜学があるが、これも奇術や見世物に近い方面で、使い方次第ではメディウムスペシフィックな模索の代理や別経路確保に結びつくのだろう。
私はゾンビ映画を初見したとき、人体動作を作中において低速模倣するというコンセプトを具現化したのか?というふうに、スペシフィックに見てた。ダンスみたいな動作と身振りの系列化と展開がいけそうだなと。「日常生活身振りの保存と再生、そして身振りによる階級差の露呈」の要素はロメロの初期作にすでに見え隠れしていたし。

グリンバーグ的に考えたら奇術要素は「生産過程の模倣」「模倣の模倣(としての抽象)」のプログラムに見えず、むしろキッチュに見えるはずなのだが、非グリンバーグ的なメディウムスペシフィシティを考えるなら、別の経路として浮上するだろう、と。映画における奇術主題はいかにもそれらしい

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