冒頭で始まるフランコ独裁と内戦という文脈からの解放のお題だが、結部の怪物と精霊のメタファーこそが内戦だろ?ともう一周して回帰するだけに思えた。thecinema.jp/post/article_lett

「あえて言うが、何人の人が映画冒頭の「1940年頃 カスティーリャのある村」というテロップでスペイン内戦、フランコ独裁を読み取っただろうか。」の箇所、端的に間違いだと思う。

「1945年、広島」とテロップが入ったら日本人なら察するような前提認識が、ヨーロッパ人には無い、とか、広島で原爆とか想起する人なんかいません〜と言い募るわからずやの右派の主張と変わらん。

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わざわざテロップで時代を特定するとき、伝わらないとしても「知らん奴が悪い」と言えるクライテリアは発動するし、まあ知らんとしても後から気になるとか、言われて補足情報でなるほど、となる経路として残るように使われる。作品において、観客が気に留めるフックとして使ってる事実はある。そこを無視しすぎ。知りませんし知りたいと思いませ〜んとおちょくってるようなスタンスの記事。

作品外の知識を要求する特定論者かそういう議論に対する怒りが隠れた動機かなと思った。あるいは、蓮實のエリセ語り(政治的文脈消しまくり称賛)→それに対抗する細川晋のエリセ本(政治的アレゴリーの強調)→…と連鎖しているシーソーゲームの変な余波か。

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