マンツーマンで何かを伝授する場合、パワハラっぽくなるトリガーは山ほどあるから、結局のところ、数人規模ぐらいの一定の集団のなかで人は学んだ方が効果的なのもあるなー。在野だろうと大学だろうと、教える・学ぶ関係はわりと暴力の温床になる。

一対一だと、自分ー相手の二者関係のなかで、「自分に足りないもの」の把握を誤ってしまうことが増える。無いなら無いなりにしのいだり、組み立てるめどが掴めなくなったり。そのへんは集団の生態を観察しながら学ぶと、目処がつきやすい。

そういう意味で、プロとアマチュアが混ざる読書会とか勉強会とかがグラデーションが幅広く成立する(のでいろんな人が入る余地がある)場所ってことになりやすい。

読書会・勉強会は、書くことを組み込んだサークルの方がより良い、というのもあるかな。レジュメであれテキストであれ、書くと、自分の読み方の粗に気づいたり、組み立て方に気づくことが増えるし。

ただ、この手の集まりによくいる「レジュメを欲しがる人」がしばしば「むしろレジュメをその人自身が書いたほうがいい人」である地獄がある。レジュメをほしがる心情は、まとめがあると読みやすくなるということに根ざすが、自分でまとめる経験を踏んだ方がそもそも読めるようになるので。しかし多くの人はそうは進まず、無限にレジュメを欲しがり続ける循環の中に生きる。こういうときに「自分は読んでるだけなので」といったアイデンティティ意識が邪魔をする。そういうときには、そもそも書かないと読めない、というふうに言わざるを得なくなるが、わりとアイデンティティ自認がそれを吸収することを邪魔する。

同じように、人はあれこれ理由をつけて、書くことやある程度以上のラーニングをすることを忌避する。そういう行動の閾値の線引きによって、多くの人はあいまいにリミットを迎えてしまう。

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多くの場合に言えることだが、「自分にとって自然であること」を守ろうとすると、人は変わりたくない、学びたくない、となっていく。「自然さ」の透明なイデオロギーに従うことを選ぶし、それ以上伸びなくなりやすい。

私はそういう秩序に従って村人になるぐらいなら学ぶ方がいいや、と振り切ってるが、多くの場合、居場所とアイデンティティにしがみつく。

(まあ読み書きする読書会、つまりライティングサークルにも居場所化のモメントがあるんだが、その種のことは「テキスト生産においては合意や理解の共有への期待の地平は不可欠であり、設定しないと書けない」という事情からうまく組み込む必要がある)

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