吉原の文化だけを抽出することは本当にありなんだろうか?という疑義として興味深い記事だった。
“「芸や教養を持った遊女」あるいは「遊女は単なる娼婦ではない」と遊女を持ち上げることが、現代の性風俗業従事経験のある女性を傷つける理由は、「単なる娼婦」に江原氏が示した先の女性観が内在するからである。同じ観念が、一方を「芸や教養豊かな遊女」と相対的に持ち上げ、もう一方を「単なる娼婦」と無視してよしとする不均衡を生み出している。
(…)仕事の選択肢が少ない時代や状況下にたまたま生まれ、遊女であろうとも生き延びようと足掻いた先で、さらには芸や教養のふるい別けで「まだまだここまで追いやられて」、分断されるという、遊女に留まらず女性全体に向けられた差別意識(…)。
(…)
もう少し丁寧な表現を試みる。「二度と繰り返してはならない、と反省の立場に立つのであれば、まずは文化認識を再構築すべきである。誰にとっての文化なのか?(=含まれないのは誰なのか?) この再構築を棚上げしたまま当時の受益者と同じ視線で『文化』と扱うことは、受益者側からみた二分化『成功した女』と『失敗した女』の再現である。”