この斎藤幸平「贅沢な社会とコミュニズム」(2020)中盤の議論を読んでたんだけど、私的労働が商品交換によって社会的労働となり、その総和である社会総労働が分配されることで事後的に価値を決定されるというマルクス価値論のくだりが考えさせられる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/peq/57/2/57_6/_pdf
斎藤は、ネグリや現代左派の労働論の整理のあとで議論を展開しているが、そこでは私的労働のダイレクトな社会労働化の局面において変貌し、価値そのものが尺度を失う射程があるんだけど、そもそも作品の価値づけ・評価付けのシステムと慣習もわりと似てるのでは?と思考が誘われる。
また、「ITによる協働型経済」を主張する左派がここでリバタリアン右派と区別が難しくなるという事情も、この国家との対で把握すると良いのだろう。
インディペンデントやオルタナティブに対する漠然と、期待値を下げて見積もる姿勢って、「私的労働の匂い」への反応とすごく似ているんだろうな。
印刷メディアから配信への移行については、つまり印刷メディアとは、税の徴収と経済制作を行い社会総労働の分配を取り仕切る国家機構の、文化における代替機構であり、印刷メディアが価値付けと分配の機構だったのではないか?と。
配信になることで、置かれる物にタイムスタンプは消えるし、サービスの開始と終了はかなり不可視化するし、価値付けの現れ方がグッと変わった印象がある。アーカイブが脆弱になったので、過去作品への冷淡さは加速的に進むだろうけど、それだけではなく、かつてのメジャーとマイナーの二分法がテレビVS雑誌といった異なるメディア規模の投影であり、その基礎から変貌したことがもはや明るみに出たというふうに思っている。