この斎藤幸平「贅沢な社会とコミュニズム」(2020)中盤の議論を読んでたんだけど、私的労働が商品交換によって社会的労働となり、その総和である社会総労働が分配されることで事後的に価値を決定されるというマルクス価値論のくだりが考えさせられる。
jstage.jst.go.jp/article/peq/5

斎藤は、ネグリや現代左派の労働論の整理のあとで議論を展開しているが、そこでは私的労働のダイレクトな社会労働化の局面において変貌し、価値そのものが尺度を失う射程があるんだけど、そもそも作品の価値づけ・評価付けのシステムと慣習もわりと似てるのでは?と思考が誘われる。

ここでも同じような私的労働/社会総労働の分配の構図があり、印刷メディアから配信への秩序変貌で起きているのはいわゆる象徴秩序の衰退というよりもむしろ、価値づけの根拠喪失に伴う「自分が没入できるかどうか/他者との共生にとって有益・有害な側面(生存術としての道徳性)をもつか」に根拠が集約されつつあることなのではないか?などと考える。

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そうしてみると、作品を批評する側が、オルタナティブな活動にすべてを賭けるというよりは、批判的商業主義とでもいうべき立場に帰着しがちなのは、労働の価値づけにおいて社会総労働の分配機構である国家があるかぎりで批判的ナショナリストになりがちなのと相似的なのではないか。

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