すっかりポスト金子遊が待望される昨今ですが、ネトフリでアメリカドキュメンタリーわいわい層を引き込めるスペックのやつが出てほしいですね。平沢剛と金子を両方過去にできる、かつ左派アジェンダを継げるプレイヤーが必要。

シネフィルはドキュメンタリー知があるわけでもないから、隙間だらけのはすだし、蓄積はかなりスカスカになってきてるんだが、この方面は放置されまくりだ……。

金子は松田政男論でデビューしてるから平沢剛と同じような前世紀の左派論壇系映像批評の末裔でもある。

シネフィルはアニメや「映像」(dis用語)を嫌悪するから擬似的にドキュメンタリー志向っぽく扮するんだけど実際にはドキュメンタリー系のリテラシーはすかすか。そのシネフィルの教養欠落の隙間を縫うことでそれっぽく見えるという立ち位置だった。ただ金子の左派性も「第三世界系&人類学」を纏ってるから自動的に導かれたものにすぎず、現代の韓国や英米のドキュメンタリー(ネトフリ的なエンタメぽいドキュメンタリー含む)との戦いを踏まえた射程とかは作れていないと思う。

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金子が多摩美准教授ポストを失職して映画業界から追放のも当然だと考える(金子の被害者がまだ続々と発見される気配が川上ツイートからもうかがえる)。

他方、シネフィル批評家は女優・男性俳優に対して「愛でる」ような言説を前世紀からずっと維持していて、おそらく彼彼女らは俳優への姿勢をノーカンにする習性に染まっているのでここを対象化することについて盲点になっている。川上のTwitterアカウントでも大寺がそういう「認識の更新がないミソジニー」の権化のような現れ方になったし、彼が「これだから批評家は」と零すのも、シネフィル批評家の現状としては揶揄ではなくわりと妥当な評になっている。

「女性俳優・男性俳優への言説の全面的更新」が待望されるのだが、ある世代までのシネフィルは(特に在野では)フィルムスタディーズをやらない口実を蓮實から得てしまっている。他方、鷲谷花とか北村匡平(北村は取り上げる対象は古いしシネフィル保守に迎合的だが)がフェミニズム批評経由で俳優への関心を言説にできているが、在野シネフィル層はそういうのを吸収するのを拒否してるんだろう。ある世代までと言ったが現在は「年寄りぶりたい若手」に同じような蓮實憑依チートプレイが増えている。

「女性俳優・男性俳優への言説の全面的更新」では、斎藤綾子的な男性俳優消化が00年代にとっとと単著になって浸透しているべきだったのでは?と思うが、実際には10年代の映画ライターによってポピュラー化アレンジで浸透したんだろう。そしてそのときにリテラシー層のズレから、シネフィルは自分たちにカンケーねえ、ぐらいに線引して教養見直しの契機と捉えなかった。こうしてミソジニーっぽい体制が強力に延命されている。

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