これは別冊宝島おたくの本で発言のことなんだけど、女性漫画家におけるBL(当時はやおいの扱い)、男性漫画家における百合(当時はロリコン漫画の枠)の作品などについて聞こうとするインタビュアーに対し、上野の発言が今の目では見るに耐えないものだった。
たぶん、モテーモテないのバイナリーコードがあって、後者の方に、マザコン、ロリコン、未成熟、魅力がない、などを放り込む手続きになってるんだけど、その結果、「モテて正常で成熟したら大人」規範がかなり強化されている。
が、こうした傾向は上野だけに見られるものではなく、わりと前世紀論客はこういう手つきが多かったことを思い出す。山田詠美にも中沢新一にも浅田彰にもそういうところがある。
この件はいろいろ考えさせられるんだけど、私はオタクをエスニシティのように捉えることにはわりと違和感はあるんだけど、社会のノーマビリティとは異なる文化や階層、行動原理の出現とその対応という意味では、多民族社会のエスニシティや文化をめぐる取り組みを参照する意義があるんだろう。
そこで見ると、浅田も上野も「成熟」を盾に、日本における別のエスニシティや文化階層を抑圧する側に、ごく慣習的になってたように見えるし、それが悪質に見えなかったのは90年代までの日本社会秩序の同質性ゆえなのではないか?と思える。
彼彼女らは在日韓国人とかハーフといった指標にもちろんレイシストの振る舞いはしないわけだが、日本国内の階層差や文化の差に対してマウントを取るのが習性になってる感じ。
「そこは上野と浅田らの一番しょうもない部分であり、美点は別のところ」と私も思うし、そういうのを記述する議論も出てほしいんだが、一番しょうもない部分に感染する人が多すぎるという問題がある。